隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

本心

平野啓一郎氏の本心を読んだ。この作品は北上ラジオの第36回で紹介されていた。

たっぷり楽しませてくれる平野啓一郎『本心』(文藝春秋)を読むべし!【北上ラジオ#36】 - YouTube

物語は母子家庭で育った主人公の石川朔也が亡くなった母の喪失感を埋めるためにVF(ヴァーチャル・フィギュア)の製作を依頼するところから始まる。AIの技術を用い、過去のライフデータから仮想的な人格を仮想空間に作成し、ヘッドセットをつけることにより会話ができるようになっている。朔也はその時29歳で、あることがきっかけで高校を中退し、それから不安定な仕事を転々とし、今はリアル・アバターの仕事をしている。その仕事は、依頼者の代わりにどこかに出かけ、依頼者は朔也が装着したカメラをヘッドセット通して見、彼に指示を出して遠隔操作するのだ。

朔也の母は事故死だったのだが、生前「自由死」を望んでいた。理由は「もう十分生きたから」だと言う。当然朔也には受け入れ難く、同意などできなかった。二人の間に妥協点も見つかるわけもなく、議論が深まることもなく、母は事故死した。そして、母がいなくなった今再びなぜ母は「自然死」を望んだのだろうと考えるのだった。母の本心は何だったのかと。

物語の舞台は2040年代の未来の日本で、その時代は今よりも格差社会が進み、豊かな人とそこにはたどり着けなかった人たちの分断が進んでいる。気候変動の影響も今よりも悪化しており、度重なる台風被害や、暑い夏が日常になり、社会的な弱者にはますます厳しい世の中になっている。長く生きることが必ずしも望まれることではないという風潮もあり、自分に少しでも多くのお金を残すために、母は「自然死」を望んだのではないのかと朔也は想像するのだが、母が亡くなった今、それを確かめるすべはない。この小説には色々なことが詰め込まれている。格差はあまりにも明確な物語のパーツで、一度固定化された経済的な貧しさを、自力で覆すことは容易ではない。まして、中卒の朔也には未来は鎖されたものと感じられている。そして、タイトルにある「本心」だ。結局相手が生きていようが、本心を知るのは容易なことではないだろう。まして、相手が死んでいるのならば不可能で、たとえVFとして母をある意味再現しても、それは不可能なことは朔也にも分っている。VFの「母」は自然死を言い出す前の母に設定しているので、自然死という言葉自体知らないはずだ。

この小説は朔也が母の自然死の理由を考えて鬱々としていくようなストーリーではない。この後朔也はかって母と以前一緒に働いていた三好という30代前半の女性が台風で被災し、住むところを失ったので、一緒にルームシェアすることになったり、アバターデザイナーのイフィーと出会うことになり、物語が進んでいく。イフィーは子供の頃自動車事故にあい、下半身不随になっている。この三人の不思議な関係にも本心が関係している。朔也が小説内で語っていることも、本心なのかどうか確信が持てなかった。特に三好に対する気持ちも、相手に対する過度な忖度のような気がする。ただ、物語は前向きな感じで終わっているので、それが救いになるのだと感じた。