隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

津田梅子 科学への道、大学の夢

古川安氏の津田梅子 科学への道、大学の夢 を読んだ。以前から不思議に思っていたのだが、明治政府は5人の少女をアメリカ留学に送り出したが、これは明治政府の中の誰の案なのだろう?どういう組織がかかわっていたのだろう?そして、その目的あるいは期待していたのは何なのだろう?これらのことが疑問ではあったが、なんとなく調べずに今まで来てしまった。そして、たまたまこの本が出版されているの気づいたので、疑問点が解消するかもしれないと思い読んでみた。

女子を官費留学としてアメリカに派遣することを建議したのは北海道開拓使次官の黒田清隆だった。黒田はアメリカを視察したときに、アメリカ女性は教養があり、社会的地位が高いことに驚き、それは教育によるものだと考えたようだ。黒田は特に就学前児童にとって母親の家庭のおける影響を重視し、賢母養成のための女子教育・家庭教育の必要性を訴えた。

1871(明治4)年秋、黒田の建議は承認され、女子留学生の募集が行われた。留学期間は10年、留学先はアメリカ、政府が旅費、学費、生活費のすべてをの費用を負担し、更に年間800ドルの奨学金を支給するというものだった。黒田が、この少女たちに期待したのは特定の学問や技術の取得ではなく、10年間にわたる「アメリカの家庭生活の体得」だった。

この時に女子留学生として選ばれたのは、上田貞子(出発時16歳)、吉益亮子(14歳)、山川捨松(11歳)、永井繫子(9歳)、津田梅子(6歳)で、津田梅子は最年少であった。上田貞子と吉益亮子はホームシックにより体調を崩したために一年経たずに帰国した。山川捨松と永井繫子はヴァッサー大学に進学し、永井繫子は3年制の芸術学課程(音楽専攻)を修了し1881年に帰国、山川捨松は4年制リベラルアーツ(教養学)を修了し、日本人女性として初めてアメリカの学士号を取得した。津田梅子はアーチャー・インスティチュートというハイスクールレベルの女子校を卒業した。捨松と梅子は予定を一年延長して1882年に帰国した。3人の中で梅子だけが大学教育に触れていなかったことが、後年再度アメリカ留学を思い立った理由の一つにあるようだ。

開拓使は明治15(1882)年に廃止され、梅子が帰国したときにはなくなってしまっていて、帰国しても何らの仕事を与えられなかったのだが、当初黒田が考えていたことを考えると、仮に開拓使があったとしても、何も仕事はなかったのではないかと思う。