隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

鎌倉公方と関東管領 (対決の東国史 4)

植田真平氏鎌倉公方関東管領を読んだ。本書は対決の東国史シリーズの一冊で、室町時代の中頃までを鎌倉公方関東管領という切り口で解説した本だ。

鎌倉公方関東管領

鎌倉公方と言えば、室町時代にも鎌倉に駐在し、関東に睨みを利かせていた室町幕府の一組織的な感じで理解していた。しかし、この理解は正しくなく、鎌倉御所と室町御所は日本を二分して統治していた。関東は鎌倉御所が、それ以西(時には奥州も)は室町幕府が担当していた。この「鎌倉公方」という言葉は現代の歴史用語で、当時は「鎌倉殿」、「鎌倉御所」、「関東御所」と呼ばれていたようだ。一方関東管領は当時からそのように呼ばれていたようだ。

足利家で家政を取り仕切る側近の筆頭を「執事」と呼んでいて、鎌倉にも関東執事がいた。だが、最初に関東管領に就いた上杉憲顕は越後守護として京都の義詮から命令を受けながら、身は鎌倉において基氏に仕えた。この両義的な立場により、憲顕は義詮と基氏との連絡役も兼ねていたようで、この点が関東執事との違いだった。

上杉家

上杉氏の祖は勧修寺流藤原氏の一流の、更に傍流の藤原重房という公家だった。鎌倉幕府の六代将軍となる宗尊親王の一行に付き従って京都から鎌倉に下った。この時重房は丹波国何鹿いかるが郡上杉荘(現京都府綾部市)を拝領し、これが上杉氏の苗字の由来になった。鎌倉に下ってから重房は足利氏に接近し、姻戚関係を通じて関係を深め、ほどなく足利家臣団に組み込まれた。重房の娘は足利頼氏に仕えて家時を生み、孫娘の清子も足利貞氏に仕えて高氏・高国という二人の息子を生んだ。そして、この高氏が後の足利尊氏である。

戦乱が終わらない北関東

本書を読んでいて気付いたのは、室町幕府が成立し、鎌倉公方が置かれてから、ずーと関東では小規模から大規模まで様々な戦が続いていて、一向に収まる気配がないという事だ。そして、当初は鎌倉公方関東管領は共闘して戦に対応していたが、鎌倉公方であった足利持氏が18歳になった時、応永22(1415)年に、四月の評定所関東管領上杉禅秀の家臣の領地を没収した時から、両者の関係はおかしくなっていく。本書にはその背景や理由が書かれていないので、何があったか全く不明だ。禅秀は怒って自邸に閉じこもり、関東管領を辞任した。そして、公方の持氏と24歳の新関東管領上杉憲基が鎌倉府の主導権を握った。その後禅秀はクーデターを起こし、鎌倉公方関東管領を鎌倉から追放して、自らがその地位に就いた。このクーデターは室町幕府が、持氏を支持して収拾を図るが、関東の混乱は全く収まる気配が見えない。