隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

幕末社会

須田努氏の幕末社会を読んだ。どの年代からを幕末と呼ぶかはいろいろ意見はあるだろうが、著者は天保時代からを幕末ととらえていて、本書では天保時代から取り上げている。いわゆる幕末も1868年に近づけば近づくほど、とてつもなく色々な出来事が起こってきているが、実はそのような事が起きる背景にはその前からのことが関係しているというのは当たり前のことではあるが、あまり関係が見えていなかった。特に小説やドラマで取り上げられるのは武士階級のことが多く、一般民衆はどうだったのかという事はあまり理解していなかった。

天保時代(1830年~1843年)

1840年に起きたアヘン戦争とその結果については幕藩領主・知識人に知るところとなり、欧米列強の軍事力が脅威であることが認識された。その結果異国船打ち払い令が1842年の薪水給与令に転換していった。

少し前の時代になるが、19世紀初めころから生糸・絹・織物などの特産品により豪農に富が集中するようになった。さらに貨幣悪鋳により通貨量が増大し、江戸経済圏に含まれていた村々にも小判が流通するようになった。その小判を狙った強請・たかりをする浪人、賭博を開く博徒、賭博場に集まる無宿人・渡世人が村々に入り込むようになり、治安が悪化していった。それに対処するために幕府は勘定奉行配下に関東取締役出役を設置し、無宿や渡世人の取り締まりにあたらせた。なんとなく関東取締出役はもう少し前から存在していると思っていたのだが、19世紀になってからだとは知らなかった。関東取締出役は成功したとはあまり思えない。というのも取り締まりの対象が無宿・渡世人に限られていること、江戸に捕まえた無宿・渡世人を送る費用は捕まえたところの村の負担になるので、余計な出費を嫌がる村からの協力が得られにくいという側面があるからだ。

なぜ関東地方に渡世人が多かったのかという分析が興味深い。徳川家康は江戸周辺に大藩を設置しなかったので、この辺りは中小の譜代藩・旗本・寺社領が錯綜しており、警察・軍事的な役割はそれぞれ細分化された支配領域にしか及んでいなかったので、地域全体としての取り締まりは緩かったというのだ。一方関西は、大坂を幕府の軍事拠点にし、岸和田藩・高槻藩尼崎藩という譜代大名京都所司代や大坂奉行所郡代らが連携して地域支配を行うシステムを構築したので、博徒渡世人の跋扈はなかったという。

天保7(1836)年山梨県のほぼ全域にわたって打ちこわしが発生した。甲州騒動である。天保4(1833)年以降米価高騰の状態が続き、天保7年には餓死・疫病人・行き倒れが多発、一家離散という深刻な状況になった。しかし、石和代官は飢饉対策を施さず、百姓が米穀商を襲撃する事件が起きた。しかしこの騒動は変質していき、無宿人が騒動を起こすようになり、米穀商以外の質屋や有徳人を襲うようになった。騒動勢は「悪党」と呼ばれるようになり、甲府代官は悪党の殺害命令を出すに至った。このことがこの地域の人々の自衛意識を大いに高めることになる。

弘化から安政 (1844年~1860年)

幕末を象徴する言葉として、尊王、攘夷、国体というものがあるが、これは水戸藩の会沢正志斎によってつくられた言葉だという。いまさらながらだが、攘夷というのは夷狄を討つという事で、これは中華思想的な言葉だが、会沢が武力で日本を凌駕する欧米列強と対抗するには、武威を強調するだけでなく、新たなアイデンティティが必要で、それが神州日本を上国とし、その優位性を強調するために国体という概念を作り上げた。

この期間は嘉永6(1853)年のペリー来航、嘉永7(1854)年の日米和親条約調印、そしてその後の将軍継嗣問題、安政5(1858)年の日米修好通商条約安政の大獄安政7(1860)年の桜田門外の変と様々なことが起きている。特に安政の大獄は明らかに暴力による恐怖政治であり、それによって政情が非常に不安定となり、結果として桜田門外の変に繋がっている。

また、日米修好通商条約後、幕府は開港地横浜への出店奨励の町触れを江戸市中に出し、移住奨励の触書を全国に出した。このことは経済格差を助長し、物価の高騰を招く原因となった。

この期間は地震コレラが流行したことでも記憶が残る期間であり、特に安政2(1855)年の安政地震で江戸の治安は確実に悪化していた。そして、最初に日本がコレラに襲われたのは文政5(1822)年であったが、安政2年にもアメリカの軍艦の船員が上海で罹患し、そして長崎に入港して日本に再び広がった。人々は開港によりコレラが異国よりもたらされたというのは理解していたようだ。

万延から文久 (1860年1864年)

安政7(1860)年幕府は権威回復のために公武合体を企図し、朝廷に願い出る。朝廷はこの申し出を利用し、幕府に破約攘夷を約束させる。この約束が後々まで幕府の首を絞めることになる。文久元年(1861年)に和宮は江戸に向かうが、「孝明天皇の妹の和宮が臣下の征夷大将軍に嫁するなどあってはならない」という考えが在地社会に広がった。象徴的な事件は公武合体を進めた老中安藤信正文久2(1862)年に襲われた坂下門外の変であろう。幕末江戸と外国人 - 隠居日録にある通り過激な攘夷が一気に広がっていく。

長州藩久坂玄瑞高杉晋作桂小五郎の主導の元、藩是を「尊王攘夷」に一元化し、「破約攘夷」を表看板に京都で活動した。幕府が攘夷実行の期日とした文久3(1863)年5月10日馬関海峡を通行する欧米列強の艦船を砲撃した。馬関戦争である。このような行動に出たのは長州だけである。8月18日の政変、翌年の禁門の変と経て、長州藩は朝敵となる。文久4(1864)年8月の4か国連合艦隊(英仏米蘭)による報復戦が始まり、8月8日に4か国と長州藩の講和が行われた。この講和で結局賠償金は幕府が負担することになり、その一部は明治政府に引き継がれた。

一方薩摩藩の動きとしては、文久2(1862)年島津久光孝明天皇の要請を受け京都の治安維持のために上京する。その後さらに江戸入りし、幕政改革を要求して、安政の大獄で失脚した旧一橋派が復権した。江戸からの帰途、生麦事件が発生し、謝罪・賠償金・犯人の引き渡しに応じない薩摩に対して1963年薩英戦争が起きた。この戦いでイギリス側はあまりはかばかしい戦果を挙げていないようだ。戦後の講和で遺族への扶助料として2.5万ポンドの支払いには応じたが、薩摩はこれを幕府から借金し、結局踏み倒している。また、一方で文久3年に設置された参預会議に、久光が文久4年に参加することになるが、この会議ははかばかしい結果を残せず、慶喜の暴言により機嫌を損ねた久光は完全に参預会議を見限り、幕府への協調姿勢をやめた。結果参与会議は空中分解した。

新選組の中核メンバーである近藤勇土方歳三沖田総司多摩地域の出身だが、なぜ天然理心流と多摩地区が関係しているのか不思議に思っていた。この流派の祖である近藤内蔵助は天明―寛政期に江戸の両国薬研堀で道場を開いたが、門人が増えず、多摩地区に出稽古を始めた。その地区には八王子千人同心が土着していたからだろう。そして、多摩地区の百姓身分の中から筋の良いものが近藤家の養子となり、天然理心流の名跡を継いでいった。当初の門人は八王子千人同心によって支えられていたが、甲州騒動の影響により、天保期から門人は村役人層の家柄で10歳前後の跡継ぎへと変わっていった。宮川勝五郎が入門し、近藤家の養子となり、名前を勇と改名し、4代目を継いだ。

元治から慶応 (1864年~1868年)

元治元(1864)年11月第一次長州戦争が起き、その結果長州は敗北し、3家老の切腹で収束したが、12月に高杉晋作がクーデターを起こし、藩の方針を幕府恭順から幕府対抗に切り替えた。慶応元(1865)年9月英米仏蘭の艦隊が兵庫沖に来航、朝廷に対して軍事的圧力をかけた。家茂と慶喜孝明天皇を説得し、10月孝明天皇は修好通商条約を勅許した。ここに至りあれほど国を騒がしていた攘夷が意味のないことになってしまった。その代わりと言っては何だが、時代は朝廷につく「勤王」か幕府側に立つ「佐幕」かの時代に突入していくことになる。

朝敵の汚名返上を目指す長州藩と政治力回復を希求する長州藩の思惑が一致し、薩長同盟が慶応2(1866)年に成立した。幕府は薩摩藩の反対を押し切り第二次長州戦争を開始したが、薩摩藩経由でイギリスの武器を購入していた長州は強く、幕府側の戦況は不利だった。そして、戦争のさなか家茂が死去する。幕府は朝廷に働きかけて、停戦の勅命を出して貰う。当初慶喜は徳川宗家を継承したが、将軍にはならなかった。12月にようやく将軍に就任する。慶応3年10月慶喜は朝廷に将軍職辞任を申し出た。大政奉還だ。こうして江戸幕府は終焉を迎えた。