隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

計算する生命

森田真生氏の計算する生命を読んだ。本書は「心」と「身体」と「数学」とを結び合わせて綴られた数学エッセイである。人間にとって数えるという事の起源から語り始め、それから代数に話が広がり、代数と幾何の結びつき(図形の本質が方程式であるという視点)、やがて論理学までに視点が広がっていく。そして最後には人工知能・人工生命にまで話はつながる。

この本を読む前から、虚数も、複素数も、複素平面もわかっていたが、今一つ具体的なイメージを持っていなかった。複素平面は工学的な分野でもよく出てきて目にしているし、直交する2変数を扱う場合は非常に便利なのはわかっていた。ただ、具体的にiが何を意味しているのかというのは、本書の説明を読んで納得がいった。iは90°左回転させるという具体的な意味合いを持っているという事だ。これは複素平面を見れば自明なのだが、具体的なイメージとしては正しく認識していなかった。また、この前段階で出てくる、-1も180°回転させるという具体的なイメージがなく、こちらも言われれば自明なのだが、このような理解をしていなかった。

先日NHKスペシャルABC予想の番組を放送していて、その中で宇宙際タイヒミュラー理論というのが登場し、数学界では理解不能とみなしている研究者が多数いるという内容を放送していた。この本を読んでいると、今の視点で数学的に正しいとされている公理等も、発表さた当時は理解されず、無視されることは多々あったという事がわかった。われわれは数学的な意味がイメージできないと、なかなか理解できないが、本書の中で、「記号と規則の力を借りて、意味のない方向へ進む」と書かれていたり、「意味を手放し、規則を頼りに前進する」とも書かれたりして、当時の人たちはどのようにそのような境地に辿り着いたのだろうかと、不思議に思う。

「計算する生命」の中で言及されている1980年代の人工知能の蹉跌が哲学的側面からは既に予見されていた点は興味深かった。デカルト、カント、フレーゲウィトゲンシュタインという思索の系譜の中で導きだされた、「『規則に従う』ことは一つの実践なのである。そしてl規則に従っていると思う事は、規則に従う事ではない。それゆえ、人は『私的に』規則に従うことはできない」というなかなか理解しがたい結論から、到底規則だけで構成された人工知能は自律的な知性とは程遠いもになってしまうことは予見されていたのだろう。しかし、この哲学面での気づきは計算機科学の人々とどれだけ議論され、共有されていたのだろう。活発な議論があったなら無駄な努力はおこわわれなかったのだろうか?それともやはり自分で失敗しないと納得できなかったのだろうか?