隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

指差す標識の事例

イーアン・ペアーズの指差す標識の事例 (原題 An Instance of the Fingerpost)を読んだ。この小説は上下巻合わせて1100ページを超える大作のミステリーだ。しかも構成が変わっている。4人の手になる手記が収められていて、ある殺人事件にまつわる出来事をそれぞれ4人の視点で語っているのだ。しかもそれぞれの書き手が、事実をありのままに書かないという事を意図的に、あるいは意図せず行っているので、最後の手記を読むまで何が起きていたのかよくわからないようになっている。そして、第二、第三、第四の書き手はそれぞれ前の手記を踏まえて書いていて、前の手記の間違いや書かれていなかったことを新に付け加えてくるので、事件の違う一面が見えてくる構成になっている。

物語自体はオックスフォード大学教師のロバート・グローブの殺害事件なのだが、第一の手記でその犯人とされたサラ・ブランディの数奇な物語というのが実態だろう。第一の手記の書き手は、ヴェネツィア人商人の息子で、イギリスにおける父の仕事のトラブルを解決しにやって来たマルコ・ダ・コーラだ。コーラはロンドンに到着するなり、イギリスの事業の代理人が数週間前に急死し、イギリス人のパートナーが事業を乗っ取っていたことを知る。ロンドンにいると身の危険を感じて、知己を頼ってオックスフォードに行き、困窮していたサラと出会い、サラの母親のけがを治療することになった。彼は医者ではないが、医術の心得があった。コーラがオックスフォードに来た時点でサラは身持ちが悪く、娼婦だと噂されていた。そして、グローブが殺害され、サラが犯人として捕まり、裁判で有罪判決を受け、絞首刑を執行され、遺体は焼かれてしまった。事件のあらましはこのようになっているのだが、コーラは自分の輸血というアイディアが盗まれたことを告発するために手記を残したという体で書いている。

続く第二の手記の書き手はオックスフォードの大学生であるジャック・プレイストコットで、彼の手記では彼の視点で真犯人に言及し、更になぜサラがグローブ殺害事件の犯人に仕立て上げられたのかが明かされる。この男の父は国王に対して反逆し、国外逃亡中に客死したようで、そのため一家が没落してしまった。彼は父親が陰謀により嵌められたと思い込んでいて、彼の絶対的な望みは父の汚名を雪ぐことと、一家を再興することにある。彼の行動原理・思考はその事に侵されているので、ものの見方がかなり偏っていて、妄想と現実が入り乱れていて、明らかに真実ではないことも紛れているだろう。彼は第一の手記では、傷害事件で逮捕されていて、裁判待ちの状態だったのだが、なぜそのような事になったのかは書かれていなかった。彼の手記を読むと、コーラがイギリスに来る前から何が起きていたのかが書かれていて、彼がなぜ逮捕されたのかがわかるが、彼の手記は一番信用ならない。注意して読まないといけないだろう。

第三の手記の書き手はオックスフォードの幾何学の教授であるジョン・ウォリスで、彼の暗号解読の能力は非常に高く、王党派にも議会派にも重宝されていた。長年そのような仕事をしていたためか、思考が陰謀論に歪められており、第一の手記の書き手のコーラも大陸から陰謀をもたらしに来た男と考えていて、排除を狙っていたことが明かされる。コーラは単なる商人の息子ではないというのだ。そして、サラの父親がどのようなことをしていたのかも明らかになる。しかし、彼の手記もどこまで信用してよいか判断に苦しむ。

第四の手記の書き手は歴者学者のアントニー・ウッドで、彼の家でサラを雑役婦として雇っていた。彼の手記により、多くのことが明らかにされるが、彼のサラに対する特殊な感情がこの手記の信ぴょう性に疑問を投げかけさせる所もある。サラ以外の彼の記述は真実に近いものと思われるし、グローブの殺害事件の真相も明らかにされているのだが、サラに関しての記述はどうなのだろうか?

この四つの手記を読んで、最終的に明らかになったこともあるのだ、では本当に最後の手記をそのまま信じてもいいのだろうかという疑問もわいている。本書はミステリーではありながら、本当に最後で全てが明らかになったかどうかわからないという不思議な構造の小説になっている。確かに長い小説ではあるが、一読の価値はあるだろう。