隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

氏名の誕生 ――江戸時代の名前はなぜ消えたのか

尾脇秀和の氏名の誕生 ――江戸時代の名前はなぜ消えたのかを読んだ。本書は江戸時代まで使われていた人名の構成方法が、明治政府の誕生により捨て去られて、今の氏名という形式になった経緯が記されている。その前提として、江戸時代の後期の頃はどのように人名が構成されていたのかが説明されているのだが、今までなんとなくわかっていたような気がしたが、この本を読んで整理できた。

江戸時代の後期の頃は三種類の名前が存在していた。武家の名前、公家の名前、庶民の名前である。

武家の名前

一般通称

「~蔵」、「~郎」、「~衛門」などの一定の特徴があり、名前であることがなんとなくわかる。また、郎ならその前に、一、二、三の数字をつけて、生まれた順番を表す(排行あるいは輩行という)こともよく行われた。この種の名前は庶民にも武家にも使われた。

正式な官名

これは、「丹波守」、「越中守」、「大和守」などの名前は、朝廷の官職名に由来し、勝手に名乗れない名前だった。武家でも、大名と一部の旗本に制限された。旗本の場合は任命される役職に諸大夫役、布衣役、布衣以下のランクがあり、諸大夫の格式が許されると、同時に正式な官名を名乗ることが許される。その場合正式な官名を自ら選択して、改名の申請をし、将軍の許可を得て名乗った。

一方大名の場合は必ず諸大夫あるいはその上の四品という格式を許されるので、正式な官名を名乗ることとなる。格式は個別に将軍が与え、その時期は大名家の先例・格式によって違いがあった。

本来「~守」や「~大夫」という名前は朝廷が任命する官職の名前であるが、江戸時代にはそのような官職は存在しない。しかし、官職を名乗るには朝廷から位階に序されたうえで、その位階に相当する官職に任じられる必要があった。そうでないと「僭称」になってしまうからだ。そこで、将軍が朝廷に「叙任」を要請し、「官位」に任じるように申請した。

疑似官名

正式な官名と一般通称の中間に位置するのが疑似官名で、官命風の名前であるが、正式な官名ではないので、許可の必要はない。主に旗本とか、大名の家来のうち、家老等の重職にあるものが用いた。これらは正式な官名から「カミ」とか「スケ」などという部分(下司したつかさ)を取り除いたものが基本で、それらに音が似た物も用いられるようになっていった。「~衛門」なども、官命を変形してつけたものなので、疑似官名になると思うのだが、江戸の頃にはその経緯も忘れられたのか、普通の名前になっていたのは面白い所だと思う。

名乗

武家にはこれ以外に、名乗というものがあり、例えば南町奉行で有名な大岡越前守は忠相という名乗がある。ただし、これは通常使うことはなく、書状に花押を書くときに、名乗をデザインして使ったという事だ。しかし、江戸中期以降印判を用いることも一般化していったようで、実際には花押を書いていなかったようだ。

本姓

大名や旗本には本姓というものもあった。本姓とは古代には「氏」と呼ばれていたもので、父系血族集団が共有する一族の名前である。これらは藤原、源、平、清原、安倍、大中臣、卜部、丹波、大江等があった。

苗字

いわゆる上の名前であるが、これは武家から庶民まで持っていた。武家は上の名前と通称を組み合わせて「名前」にしていたが、庶民の場合は通称だけで苗字は通常使わない。ただし、幕府からの許可を得て苗字を公式に使うことを許されたものもいる(苗字御免)。

公家の名前

称号

公家にもいわゆる上の姓である近衛、九条、鷹司なのがあるが、これを称号と読んだ。形だけ見ると苗字のように見えるが、公家の世界では称号と呼ばれた。

官名

朝廷の諸臣は自身に与えられた官位に見合った官に任官を許された。そして、称号に官名を接続し、久我大納言のように称して用いた。当然位が上がり、官命が変わることもあるが、その場合は称号+新しい官名で呼ばれることになる。ただし、これは名前そのものではなく、あくまでもそのように呼ばれているだけである。

姓尸

姓は武家の本姓と同じものである。公家の方では更に尸を用い、例えば藤原は朝臣、橘は宿禰と決まっていて、氏族全体で共有する爵位のようなものである。

官位は「姓名」に対して与えられ、官名を得た人は姓名の上に官名をつけ署名し、他からもそのように称された。太宰大監大伴宿禰百代(官姓尸名)とか、右大臣正二位橘宿禰諸兄(官位姓尸名)と書いた。

称号+官名が名前のように用いられると書かれていたが、そちらは正式なものではなく、この形式が正式なもので、古代以来この形式を用いてきた。

明治政府を主導した公家側の人々は、新政府ではこの公家での正式な形式にしようとあれやこれやと法令を発布した。役所の名前を新しくし、新しい官名を作ったり、旧官名を廃止したり、役所の名前を昔風のものに改めたり、明治政府の役人に姓尸を報告されたりとしたが、うまくいかなかったようだ。特に古代から続く家ならば「姓尸」が存在するだろうが、そのようなものがない人は適当に作るか、登録しないかの2択しかない。ややこしいのは、叙位されても官職についていないものは位が名前の一部に使われるので、同姓同名が多数発生した。結局、公家方が明治5年に明治政府の高官からいなくなって、我々が今使っている姓名という形式が使われることになる。これは本書の後半で詳しく書かれている。