隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

南北戦争 アメリカを二つに裂いた内戦

小川寛大氏の南北戦争 アメリカを二つに裂いた内戦を読んだ。南北戦争に関しては中学か高校の世界史で学んだという記憶があるぐらいで、北部の州は奴隷解放、南部の州は奴隷制維持を掲げて戦ったという事ぐらいしか、記憶に残っていなかった。後年、アメリカでは南北戦争のことをCivil Warと呼んでいることを知り、「南も北も関係ない?」と思った記憶がある。civil warと書くと、その意味は内戦だが、どの国にも内戦はありうるので、アメリカ以外ではAmerican Civil Warとも呼ばれているようだ。

また、南北戦争1861年から1865年にかけて戦われていたが、1854年日米和親条約、1858年の日米修好通商条約の直後に起こったことで、少なからずアメリカの対アジア・対日政策にも影響があったと思われる。

実際の戦争前の北部と南部の対立がどのように推移して内戦に至ったのかは本書を読んでもよくわからなかった。だが、今のアメリカを見ていると冷たい内戦がずうっと続いている印象を受ける。今後沈静化して二極化している世界は融和するのか、更に対立が激しくなるのか、全くわからない。

南北戦争開始以前

アメリカにおいて戦前・戦後の境目は今でも南北戦争のようで、それはアメリカ唯一の内戦にして、史上最多の戦死者(約60万人)を出したことによるのだろう。そして、意外だったのが奴隷制開放を主導したのは共和党で、当時の共和党は北部州の地域政党だったという事だ。一方民主党は全国に基盤を持つ政党だったが、奴隷制を支持する南部民主党と北部民主党の分裂状態になり、どうやらそれが1860年共和党候補のリンカーン勝利につながったようだ。リンカーン自身は穏健派に属していて、奴隷制の即時廃止を主張していなかったが、共和党の大統領が誕生したことに焦りを感じた南部諸州及び南部民主党アメリカ連合国を誕生させてしまった。

南軍はワシントンやニューヨークなどの北部の領域に侵攻して占領するような構想は持っていなかった。南軍は自領の防衛に徹し、外交努力により、英仏などから国家として承認してもらうことが勝利条件であった。

奴隷解放の真実

当時北部には奴隷制はそもそも存在せず、北部人にとって奴隷制は身近なものではなかった。南北戦争前の黒人は一部の自由黒人を除けばすべてが奴隷で、かつ奴隷制のある南部に住居していたので、北部では生まれて以降黒人を見たことがない市民も多数いた。

1963年1月1日、エイブラハム・リンカーン奴隷解放宣言を布告した。その文面は以下のようなものだった。

1963年1月1日に、合衆国に対して謀反の状態にある州あるいは州の指定地域内に奴隷として所有されているすべての人々は、その日ただちに、またそれより以降永久に、自由を与えられる。

これは奴隷制を維持しながら北部側に加わったケンタッキー、デラウェアミズーリー、メーンランドなどの境界州は適用外、北軍の実効支配にあるバージニアルイジアナも適用外になるという細則がついており、実態は自分たちの支配下にない地域である南部の奴隷を開放すると言っているだけであり、実際は一人の奴隷をも解放しなかったに等しい。

イギリス・フランスの動向

イギリスは既に1861年5月南北戦争に対しては中立をとると宣言していた。ところが1861年11月8日にメキシコ湾からオールドハバマ海峡の傍を航行していたイギリスの郵便貨物船トレント号が北軍の軍艦サンジャシントにより停船させられた。そして、乗客の2人を逮捕して北部に連行する事件が起きた。連行されたのはジェームズ・メイソンとジョン・スライデルで、南軍がヨーロッパに派遣した外交使節だった。彼らはヨーロッパで(特にフランスとイギリスに)南部連合の独立を承認してもらう活動をする予定だった。イギリスの世論は北軍の軍艦がイギリスの船舶を脅して乗客を拉致したことに沸騰した。イギリスは当然抗議したが、実際にはクリミア戦争(1853-1856)、アロー戦争(1856-1860)、インド大反乱(1857-1858)などの戦争で疲弊していた英軍は対外戦争する余裕がなかった。北軍としてもイギリスとの戦争を回避すべく、2人の逮捕は行き過ぎだとして、2人を釈放し、彼らは当初の予定通りヨーロッパへ向かったが、外交的成果は得られず、彼らの活動は終了した。

フランスの皇帝ナポレオン3世南部連合支援に前向きだったが、フランスは1861年12月からメキシコと戦争をしており、当初1カ月程度で征服できるともくろんでいたが、メキシコはゲリラ戦術も用いて抵抗し、この戦争は1867年まで続き、結局フランは負けてしまった。そのため、フランスは南北戦争に介入する余裕はなかった。

ライフル銃

第二次長州征伐や戊辰戦争にライフル銃が使われるようになったという事をよく聞くが、南北戦争にもライフル銃が投入された。銃身内部にらせん状に溝を刻むことが困難なので、実用化されていないと思っていたのだが、ただ単に溝を刻むだけでなく、銃弾がしっかり銃身内部に密着していなければならないようで、そのために銃身と銃弾が統一された規格で作られていなければならない。それを可能にしたのが1984年のフランス陸軍大尉ミニエーの発明したミニエー弾だった。ミニエー銃により銃の命中精度は飛躍的に向上した。従来型のゲーベル銃での100ヤードでの命中率は74.5%だったのが、94.5%に向上したのだ。このことが南北戦争の死傷者の数が増えた第一の理由だろう。

17世紀から19世紀の前半までは、密集した横列を組んだ兵隊たちが、同じような陣形を組んだ敵兵と20から50メートルの距離で相対し、前装式の銃で撃ち合うのが基本的な戦闘であった。このような戦闘の様子は、映画「パトリオット」の中で見ることができる。
パトリオット - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画
最初この映画を見た時は、なんという戦いだと思った。だが、ミニエー銃によりこのような戦い方は不可能になり、塹壕戦になったようだ。塹壕戦というと第一次世界大戦がすぐ連想されたが、実は南北戦争の方が早かったようだ。

戦争終結

南軍はバージニア州リッチモンドに首都を置いた。そして、ワシントンーリッチモンド間での首都攻防戦を東部戦線、ケンタッキーなどの境界州周辺からミシシッピー川の制河権をめぐり戦いを西部戦線と呼んだ。東部戦線では北軍はあまり目立った戦果が挙げれなかったが、西部戦線が実は南北戦争にとっては非常に重要な意味を持っていた。というのも南部の綿花等の輸出はミシシッピー川とその支流を使った川船が流通に使われており、この制河権を押さえれば南部に経済的な打撃を加えることができたからだ。

1864年5月から北軍ジョージア州への攻撃を開始するが、駅、橋、補給基地など南軍の重要拠点を攻撃すると同時に、裕福な農場を襲い、奴隷農園主の邸宅を略奪した。当然食料は現地調達である。その結果1964年末までに南部屈指の裕福さを誇ったジョージア州は灰燼に帰した。

1865年4月2日、南部連合国首都のリッチモンドの防衛線が破られ、北軍がその町になだれ込んだ。翌3日南部大統領デービスはリッチモンド放棄を決定し、閣僚とともに脱出した。4月12日南軍の正式な武装解除がアポマトックスで行われた。一方デービスの元からは政権スタッフや軍人が一人また一人と去り、進退窮まって5月5日にジョージア州にて南部連合政府の解散を宣言した。

戦後

リンカーン暗殺

リンカーン南北戦争中の1863年11月8の投票に勝利した。そして、第二次大統領就任演説では「汝を裁くな、裁かれざらん為なり」というマタイ伝の一節を引いて、南部を厳しく罰するつもりはないことを示していた。その後4月14日にワシントンのフォード劇場で観劇している所をジョン・ウィルクス・ブースといい俳優に後頭部を撃たれて死亡した。ジョンの父親は1821年にイギリスからやって来た移民で俳優だった。ジョンは1838年メリーランド州で生まれ、彼も俳優になったが、政治的な活動も行っており、ノーナッシング党という移民排斥をしていた政治団体と関係があった。ノーナッシング党は共和党に吸収されるが、ジョンは共和党の支持者にはならなかった。南北戦争中は「黒人と白人は同等であるはずがない」と主張していたが、南部連合に参加するわけではなく、北部のワシントンとメリーランド州を活動の拠点にしていた。

ジョン・ブースは奴隷解放を実現し、南部連合を破滅に追いやったリンカーンを嫌悪し、南部連合崩壊後はついにリンカーンを暗殺してしまう。これはリンカーンの警備の不手際など、いくつもの偶然が重なって成功しただけで、同時に計画されていた副大統領、国務長官らの暗殺は失敗している。ジョン・ブースはバージニア州に逃げ込み、リチャード・ギャレットの農場に匿われていたが、リチャードの通報により駆け付けた北軍部隊に4月26日に射殺された。

南部にもたらされた影響

1877年ごろまでは南部連合の各州には戦後北軍が駐留し、軍政を敷いていた。しかし、それが終了すると南部の旧支配層は次第に復権し、南部ではジムロウ法などと呼ばれる黒人差別法が州レベルで制定され、黒人の様々な権利が奪われた。選挙の投票権を得るのに識字テストが導入されたり、教育機関交通機関が人種別に設立され、黒人は白人と同じ公共サービスが受けられず、結果的に社会の中で低い階層に押しとどめられた。KKKなどの暴力組織南北戦争後に登場した。こうした状況は公民権運動(1950~1960)頃まで改められることはなかった。