隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

ボマーマフィアと東京大空襲 精密爆撃の理想はなぜ潰えたか

マルコム・グラッドウェルのボマーマフィアと東京大空襲 精密爆撃の理想はなぜ潰えたか (原題 THE BOMBER MAFIA)を読んだ。

以前NHK BSプレミアムで放送されていた映像の世紀プレミアムで太平洋戦争時の東京空襲に触れている回があり、その中で、「米軍は当初日本にピンポイントで爆弾を投下し、軍需施設や工場などを破壊しようとしていた。しかし、その試みは成功せず、理由は兵の練度の問題だった」と放送していたと記憶している。多分その放送回は「東京 破壊と創造の150年(19)」ではないかと思うのだが、自信はないし、この記憶自体が妄想・捏造ではないことを願う。この放送を見た時に漠然と疑問に思った。果たしてピンポイント攻撃ができなかったのは「練度」の所為なのだろうかという事だ。この本を読むまではどのぐらいの高度から爆弾を投下していたか知らなかったが、高高度を移動している爆撃機から爆弾を投下して、果たして目的としている場所に当たるのだろうか?ということを疑問に思った。そして、仮に練度の問題だったとして、いきなり無差別攻撃に切り替えるのもあまりにも安易なような印象を抱いた。この疑問はなんとなく頭に残っていた。そして、この本を見つけた。

ボマーマフィア

第2次世界大戦当時でも、空軍は独立した軍隊ではなく、陸軍の一部だったが、1930年代に航空隊戦術学校がアラバマ州モントゴメリーに設立された。この戦術学校のリーダーたちは自分たちをボマーマフィアと呼んだのだ。20世紀の初頭飛行機は大型化していき、重くて強力な爆弾を運ぶことが可能になった。ボマーマフィア達はこの大型化した飛行機で、白昼、高高度から、爆撃照準器を使い、正確に狙いを定めて攻撃することを思いついた。

爆撃照準器はカール・ノルデンにより開発された。大型戦略爆撃機B29(通称スーパーフォートレス)が開発され、マリアナ諸島から日本が攻撃可能になった。第21爆撃集団が新設され、ヘイウッド・ハンセルが指揮を執ることになった。

シュヴァインフルト攻撃

東京空襲が行われる前に、ヨーロッパでアメリカはピンポイント攻撃を実際に行ったことがあった。それは1943年の8月17日に行われたシュヴァインフルト攻撃だ。230機の爆撃機が攻撃に参加した。一機当たり8から10発の爆弾を搭載していたとすると1840から2300発の爆弾が投下されたはずであるが、命中したのは80発だった。ノルデン爆撃照準器は思ったほど性能を発揮しなかったのだ。

1944年東京攻撃

サイパンテニアン、グアムのマリアナ諸島は一つまた一つとアメリカ軍の手に落ちた。唯一B29がそこから日本を攻撃することが可能だったが、B29は故障が多く、エンジンから出火もした。また、日本に到達するためには9トンの燃料を余分に積む必要があった。そのため十分な揚力を得るため向かい風でなければ離陸できなかった。

当初1944年11月17日に最初の攻撃を予定していたが、その日は向かい風が吹かなかった。そのため出撃を延期せざるを得なかったのだが、3~4時間すると今度は熱帯暴風に襲われた。この暴風の影響で結局1週間待機させられ、出撃は24日になった。この攻撃はサン・アントニオ一号作戦と名づけられ、攻撃目標は東京近郊の中島飛行機の工場だった。では、成果はどうだったかと言うと、空爆で破壊できたのは中島飛行機のわずか1%だった。3日後再度攻撃を試みたが、一発の爆弾も命中しなかった。12月27日には72機のB29が攻撃を試みたが、工場を外し、病院を破壊した。ハンセルは5回攻撃したが、爆撃は攻撃目標に殆どかすめもしなかった。

なぜ失敗したのか?まず、雲だ。ノルデン爆撃照準器越しに目標を探したが、見つからなかった。そしてももう一つは上空の風だった。日本上空にはジェット気流が吹いているが、当時はそのことが知られていなかった。

1945年1月6日ハンセルの上官であるローリス・ソースタッド将軍がマリアナに到着し、ハンセルに告げた。「君を解任する。後任はカーティス・ルメイだ」

ナパーム弾

ルイス・フィーザーとE・B・ハーシュバークが1941年にデラウェア州のデュポンの工場で起こった爆破事故を調べて開発したのがナパーム弾だ。デュポンの工場ではジビニルアセチレンという物質を製造していて、この物質は石油精製過程で発生する炭化水素の一種で、顔料と混合して乾燥させると、丈夫で厚く粘着性のある膜を作る。この膜が引火爆発しやすいので問題となっていたのだ。彼らはジビニルアセチレンを容器に入れて観察していたところ、時間経過とともに粘着性のゲルへと変化した。このゲルを燃焼させると、燃焼している間も液化せず、粘性を失わなかった。彼らは一連の実験から、粘性ゲルの大きな塊をまき散らす爆弾というアイディアを思いついた。それから彼らは色々な物質の混合物を試し、ガソリン、ナフテン酸(napthenate)、パルミチン酸(palmitate)、アルミニウム(almimium)の組み合わせに辿り着いた。

ユタ州の実験

日本の家屋は正に木と紙で作られており、燃えやすい。彼らの試算では大坂の中心部の65ヘクタール地域の可燃率は80%と判定した。一方ロンドンは15%だった。この試算を確かめるために、アメリカ軍はユタ州の砂漠に日本村とドイツ村を建設して、実験した。日本村の建設にはアントニン・レーモンドを招聘した。日本家屋は2戸づつの棟が12棟、計24戸建設された。アメリカ軍は観測した火災を三つの等級に分けた。A)6分以内に制御不能になる。B)放置すれば住宅を全焼させられる。C)全焼に至らなかったもの。実験の結果は、日本家屋に68%の成功率でAの火災を発生させることができた。

ルメイの試行と戦略

ルメイは手始めに前任者の戦略を自分なりに試すことにした。1月、2月、3月と中島飛行機に攻撃を仕掛けた。すべての攻撃が終わっても、工場は残っていた。結局ルメイも雲と風という障害を乗り越えることができなかったのだ。そこでルメイはジェット気流も避け、雲も避けるため、1500メートルから2700メトールの高度で進入することを考えた。これだけ低高度で白昼に進入すると、対空防御の餌食になる。だったら、夜の闇に紛れて侵入するしかない。当然精密爆撃はできなくなる。投下される爆弾はナパーム弾となった。

1945年3月10日、東京の墨田川両岸の31平方キロメートルのエリアが攻撃目標だった。攻撃は3時間続き、1665トンのナパーム弾が投下され、41平方キロメートルが焼き尽くされた。

この本を読む前は、ハンセルが更迭され、ルメイが爆撃の指揮を執ってすぐに、日本への無差別攻撃が始まったのだろうと思っていたのだが、そうではなかった点を知れたことは重要だった。ルメイは冷酷な人間とみなされていて、目的のためなら手段は度外視する男なのだろうが、その手段の選択にはいくばくかの考慮があった場合もあるのだろう。