隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

知らないと恥をかくアフリカの問題 (農業への無策、飢餓のアフリカ エチオピア)

NHKラジオ第二の「カルチャーラジオ 歴史再発見」で放送されていた「アフリカは今~カオスと希望と」の第八回目。七回目までテキスト化して、そのあとすっかり忘れていた。

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1960年代にアフリカが独立する前までは、アフリカは農業国であった。ところが今アフリカの国々は南アフリカを除いて、農業産品の輸入国になってしまっている。なぜならば、政府がまともに農業を振興させてこなかったからだ。ここにもやはり部族問題があるのではないだろうか。

エチオピア

エチオピアは1980年代のアフリカの飢餓の時に最大の死者を出した。おそらく、エチピアだけで百万人ぐらい死んでいるのではないかというぐらい、大変な被害があった。アフリカの主な農業のシステムは野原に雨が降ってきたら、種を撒いて育てるという原始的な天水農業が基本だ。アフリカでは最初にものすごい雨が降ったら、それが一か月ぐらい続く。ただし、一日中朝から晩まで降っているというわけではなくて、朝とか晩に一時間ぐらい大量の雨が降るというような感じだ。

だいたいの場合は種トウモロコシを雨が降ると捲く。一エーカー(約4000平方メートル)ぐらいあれば一家四人ぐらいが食べていける。トウモロコシのほかには、稗、粟、キャッサバ、野菜バナナを栽培している。

1980年代のアフリカの飢餓

1980年代のアフリカの飢餓が発生したときは、雨が連続的に振らなかった。そのためまいた種が発芽しなかったのだった。その結果播く種がなくなったために、収穫もできなくなってしまったのだ。 この点はジンバブエはうまく耐え忍んだ。残念ながら、エチオピアの政府はこのような機能がなかった。アジスアベバ付近順調に雨が降ったが、北の方の地方では雨があまり振らなかった。そのため、まく種をすべて失った人たちは、避難民として一斉に食料のあるところに移動を始めた。なぜなら、政府が南の食料を北の地域に運ぼうとしていないからだ。当時の大統領はメンギスツで、オロモという部族に属しており、北の方で飢えていた人たちはアムハラとう部族だった。そのため、北部の飢餓に対して興味がなかったのだ。メンギスツ大統領の興味は首都アジスアベバと軍隊だけだったのだ。そうすれば自分の地位が安泰だからだ。

世界中から様々なNGOが救援の手を差し伸べ、エチオピア政府も救援物資の要請をした。しかし、エチオピア政府は救援物資に関税をかけたのだ。そのため飢餓が解消されなかった。

実は当時のエチオピアはあまり安定してはいなかった。オロモ族は全体の人口の27%、アムハラ族は35%だったので、武力で権力を維持していたのだ。

アフリカには大きな川があるのだが、その川を利用した灌漑農業がほとんど普及していなかった。農民は貧しく、灌漑設備を自力で整備することはできないし、政府も何もしなかった。ここでも、自分たちの国をどう作っていくかという意欲が、独立後まるでなかったのだ。

 アフリカの飢餓に対する各国の支援

モザンビークのWFPの活動

モザンビークのWFPで働いていた松村さんが、首都のマプトからテテに援助物資を運びたかったが、内陸はゲリラがいるので、陸路が使えなかった。モザンビーク沿岸は遠浅の海で船が使えなかったので、上陸用舟艇をレンタルしてきて、小麦を積んで北部の港まで運んで、ゲリラ地帯をパスして、そこからテテに運んだ。上陸用舟艇という戦争の道具を飢餓の対策に使ったということで、当時大変評価された活動だった。

オランダ政府の活動

タンザニアの南にマラウィ湖という湖がある。そのマラウィ湖の西側にマラウィという国があり、そのマラウィで小麦を買い付けて、そこから既存の古い鉄道を乗り継ぎ、乗継して、モザンビークのテテまで食料を持ち込んだ。

 これらの活動によりテテ周辺の飢餓をストップさせることができた。

援助が失敗したマリのケース

マリにはニジェール川が流れているが、干ばつで水位が下がってしまい、農業ができなくなってしまった農民は、援助物資が運び込まれている首都のバマコに流れていった。そして、バマコの難民キャンプで配給を受けることになるが、余った援助物資を町で叩き売ってしまった。その援助物資は現地の農産品より安く売られたことにより、現地の農産品の価格が崩壊してしまい、今まで生活できていた農民までもが、難民キャンプ流入してしまった。

援助が失敗したケニアの田植え

一反部当たり日本では十俵ぐらいとれるが、ケニアの現地では一俵も取れないような状況だった。そこでJICAが田植えをケニアで指導することにより、三俵まで増やすことができた。そんな時に、隣のタンザニア飢饉に襲われ、日本やアメリカが支援のために、タイ米を持ち込んだ。タンザニアの農民が援助のタイ米を国境を越えてケニアに持ち込んできた。タイ米の方が品質が良く安かったので、ケニアのコメは売れなくなってしまい、誰も米つくりをしなくなってしまった。

ガーナのトラクター

ガーナでイタリア政府がトラクターを100台援助しようとしたら、現地の国連スタッフが70台に減らして、減らした分の予算で現地の若者たちにトラクター技術の指導をしてくれと要請した。しかも、70台分のトラクタも無償では譲渡せずに、有償(農産物の現物納)で引き渡した。一年後イタリアでトラクタ技術の研修をして、若者が戻ってきた。その若者たちは地域に三か所作られた整備工場で技術スタッフとして働き始めた。トラクターの代金は現物で払われ、その現物が技術スタッフの給料になった。

農民たちはお金を出して買ったトラクターが壊れると困るので、丁寧に扱い、整備も怠らなかった。八年経過してもトラクターは一台も壊れなかった。

しかし、その隣の地域でアフリカ開発銀行がトラクターを100台無償で寄付したが、三年ですべて壊れてしまった。