隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

「忠臣蔵」の決算書

山本博文先生の「忠臣蔵」の決算書を読んだ。

本書では大石内蔵助が遺した「預置あずかりおきそうろう金銀きんぎん請払帳うけはらいちょう」を基に元禄赤穂事件を考察している。この史料は討ち入りのために費やされた経費の入出金記録で、神奈川県箱根町にある箱根神社に所蔵されている。渡辺世祐氏の「正史赤穂義士」によると、

浅野大学*1の手許にあったのであるが、大学は後に幕府から旗本交代寄合に取り立てられて、宝永7年安房と上総の間に於いて500石を頂戴し、青山隠田に屋敷を頂戴していた。何時の間にかこの請払帳が外に出て、或いは内蔵助が江戸に下るときに復讐を箱根権現に祈っているために、大学から権現に寄付したものであろうか、確かなことは分からぬが、権現の宝物になっている。

と書かれていて、なぜ箱根神社にあるのかの正式な来歴は分かっていないようである。この文書自体は矢頭長助教照が書き、その最後と各紙に内蔵助の黒印が押してある。内蔵助は本文書を浅野内匠頭正室である瑤泉院の用人である落合与左衛門に送ったことは分かっているようである。

この史料自体は新史料というわけでなく、以前から知られていたということだが、私は存在自体知らなかった。

入金

いわゆるこの軍資金の入金元は4つあり、

  1. 赤穂にて巳六月四日受取。 一、金四百三拾壱両弐朱 銀四拾壱匁七分
  2. 赤穂にて巳六月三日手形にて受取。 一、金弐百弐拾両
  3. 六波羅普門院、江戸指し下し申すべきと心当て、赤穂にて岡本次郎左衛門受取候得共、江戸へ普門院下らずにつき、此の方へ受取元に立てる。 一、金参拾両
  4. 紫野瑞光院にて御石塔御位牌建て候入用に心当て、小野寺十内赤穂にて受け取り銀差し引き残金、十内より受け取り元に立てる。 一、金八両壱分 銀五匁弐分五厘

となっている。このうちの3は内蔵助が御家再興のために、京都六波羅の寺僧普門院を江戸に指し下し交渉してもらうために、大坂蔵屋敷留守居役だった岡本次郎左衛門に託したものだが、普門院が留守で渡すことができなかったお金である。4は京都紫野の瑞光院に、亡君浅野内匠頭の石塔と位牌を建てるための費用の残金である。1と2であるが、内蔵助の説明によると、「去春(元禄十四年)赤穂において預かり候御金」で、「一儀之用事」に使ったその「余り金」であったという。具体的には瑤泉院が三次浅野家から輿入れした際に持参した「化粧料」を赤穂の塩浜に貸し付けて運用して、私的な支払いにあてていたが、赤穂を去るときに内蔵助が引き上げた千両のうち、七百両を瑤泉院に返却し、残った三百両と、藩を返還した時に清算したときに生じた余り金だったということだ。

出金

この資金が討ち入りのための軍事費ありきで用意されたわけでないことは、まず使われたものが仏事の費用であったことからもわかる。

  1. 紫野瑞光院に建てる御墓寄付の為、山相調え候代金也。 一、金百両
  2. 京都紫野瑞光院へ、下加茂村にて山寄附仕る。一、金子二百両

これ以外にも、別途僧侶へのあいさつなどに五両壱分の出費や、瑞光院では施餓鬼を行い、内蔵助の他に物頭の進藤源四郎や京都留守居役の小野寺十内が参詣している。

また、御家再興のための政治工作費としても出費されている。

  1. 智積院隠居僧正へ手遣いに、同宿五人へ百疋宛遣わし候。橋本治兵衛へ渡す。一、金壱両壱分 但し五百疋
  2. 遠林寺用事に付き、江戸へ差し遣わす往来路銀。江戸において方々へ手遣いの入用銀に渡す。一、金弐拾両

遠林寺の僧祐海は江戸の浅野家祈願所鏡照院を頼り、その伝手で将軍綱吉が帰依する護持院大僧正隆光に対面した。そして、「内匠頭は先領主ですので、大変残念に存じております。此の上は、大学の閉門を首尾よく御免あそばされ、御奉公も勤まるようにと、明け暮れ願っております」と訴えた。内蔵助はこの時大学の赦免だけではなく、「人前がなるように、面目が立つように願っている」という書状を残しており、吉良上野介の処分も願っていたようだ。

こうしたお金の使い方から、内蔵助がこの時点では、このお金を討ち入りに使うことなるなど考えてもいなかったことが察せられる。

しかし、元禄十五年七月十八日、幕府若年寄の加藤越中守明英から浅野大学へ、同族の浅野長武を同道し、自分の役宅へ出頭するようにとの命令が来た。大学が加藤家へ出頭すると、他の若年寄も列席の場で、「閉門を赦免し、松平安芸守(広島藩主浅野綱長)へお預け」との申し渡しがあった。これは、閉門は赦免されたが、事実上の改易処分で、大学が当主の旗本家は消滅することになり、大学が赤穂浅野家の名跡を継ぐことなど不可能になってしまった。このことを受けて、京都丸山にある安養寺塔頭の重阿弥という宿坊を借りて旧赤穂浅野家家臣による対策の会議が開かれた。この時に部屋を借りた費用も出費の中に含まれている。そして、この会議で討ち入りが決定され、同志達は江戸に下ることになった。

江戸に下るための路銀、江戸と京都の間の飛脚代、江戸での屋敷を手当てするための費用も出費されている。ただし、内蔵助と家来の路銀は記録されておらず、乏しくなった軍資金を考えて、自弁だったようである。また、討ち入りのための武具や武器(槍・矢)の購入にも充てられた。

討ち入りの後のこと

元禄十五年十二月十五日寅の上刻同士47名は吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介の首を討ちとり、泉岳寺の亡君の墓前に上野介の首を手向け、焼香した。元禄16年2月4日、幕府から46名には切腹を命じられた。

四十六士の遺児も処分され、十五歳以上の男子4名は伊豆大島に遠島になった。十五歳未満の男子も15歳になるまでは縁のあるものに預けられ、遠島処せられることになっていた。

上野介は元禄14年12月に隠居し、義周が家督を継いだ。義周は正式には吉良佐兵衛義周と呼ばれ、米沢藩上杉綱憲の次男(春千代)であった。この上杉綱憲吉良上野介の嫡男であったが、吉良上野介正室富子が上杉綱勝の妹であった関係から末期養子として上杉家を継いだ。吉良家では上野介の次男・三郎が嫡男となったが、貞享2年(1685年)に夭折し、他に男子がなかったため、綱憲は元禄2年12月9日(1690年1月19日)、次男を実家吉良家への養子とした。なので、血縁としては上野介と義周は祖父と孫の関係にある。事件当日、義周は長刀で戦ったが、負傷して逃走した。元禄16年2月4日、大目付仙石伯耆守は義周を評定所に呼び出し、「吉良上野介の儀、去々年浅野と口論の時、公を重んじたとはいえ、抵抗もせず逃げたことは、内匠に対して卑怯の至りだったが、奉公を懈怠なく務めたためそのままに差し置いたが、不覚の至りである。このため、今度、内匠の家来どもが押し寄せた時も未練のように聞こえている。親の恥辱は子として遁れがたく、諏訪安芸守忠虎へお預けなされるものである」と申し渡した。義周は生来虚弱な体質であったようで、宝永3(1706)年1月19日に危篤に陥り、20日に死去した。享年21歳。

宝永六(1709)年正月十日、五代将軍綱吉が没すると、六代将軍は綱吉の代に罪を得たもののうち3839人に大赦を与えた。この時四十六士の遺児たちもすべて大赦とされた。また、広島藩に預けられていた浅野大学も赦され、五百石を与えられて旗本(交代寄合)として取り立てられた。

*1:浅野内匠頭長矩の弟、浅野長広。元禄7(1694)年年8月21日、兄・長矩から播磨国赤穂郡の新田3000石を分与されて旗本になる

勝者なき戦争 世界戦争の200年

イアン・J. ビッカートンの勝者なき戦争 世界戦争の200年 (原題 The Illusion of Victory: The True Cost of War)を読んだ。

本書の内容をを一言で表すならば、戦争による犠牲には、どのような観点から見ても、払うのに見合った価値を見出すことはできないということだ。本書では、戦争終結から4半世紀後の時点で勝者が得たものはいったいなんであったかということを考察しているのだが、実はほとんどの戦争で、戦争終結から25年も経つと、戦争終結時に講和条約で締結したことは守られていないのだ。それどころか戦争終結時点で、何を求めて戦争を開始したのかが、よくわからなくなっているのだ。

ナポレオン戦争

フランス革命の混乱後にフランス軍を掌握したナポレオンが起こした戦争だが、1815年に終結した。皮肉なことにナポレオンは戦争には敗北したが、ナポレオンが導入した改革は各地で長期的に維持されることになった。更に今から振り返ってみれば当然なのだが、ウィーン会議などで合意された政策を遂行する正式な組織もなければ、手段も存在していなかった。1848年、甚大な人的被害と社会不安をもたらした経済不況、飢饉、伝染病の流行にヨーロッパ全域が見舞われ、各地で革命運動が高まった。2月にはパリでルイ=フィリップが王位を追われ、第二共和政が宣言された。ベルリンではプロイセン王がドイツ統一を計画してフランクフルトで開催された国民会議とその憲法の要求を一蹴した。ブダペストではマジャール人によるハンガリー独立宣言によってオーストリアの支配が揺らいだ。学生や労働者がウィーン、ミラノ、ヴェネツィアで蜂起し、オーストラリア支配からの独立を要求した。1848年の前半、スペイン、ベルギー、イタリア、ドイツ、オーストリアハンガリーにおいて急進派が、イギリスにおいてはチャーチスト運動と青年アイルランド党による運動が、既存の状態への変革を要求し、抑圧的で反動的な勢力は崩壊したのだ。

日露戦争

日露戦争の結果は25年を待たずにすぐ全く無駄であったことが分かった例だ。日本は11万人の兵士を失った。奉天での会戦ではロシア軍は3万人の死者を出し、10万人が障害を負い、4万人が捕虜になった。4か月かけて日本海にやってきたバルチック艦隊は36時間のうちに16隻が沈んだ。ロシアは一つの戦闘にも勝利できなかった。そして、1905年のポーツマスでの講和条約では、日本は1円の賠償金も得ることができなかった。日本が得たのは朝鮮半島での優越権や、南樺太中国東北部における租借地の獲得等である。この結果に不満を持った日本国民は日比谷で暴動をおこし、交番が焼き討ちにされた。ロシアでの国民の受け止めは暴力的ではなかったが、不人気であった。

本書の中で記されているアメリカの朝鮮半島への扱いは知らないことで、いかにもアメリカの論理・行動であると感じた。時の大統領ルーズベルトは日本による朝鮮半島保護領化を承認した。1905年7月のアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官の日本訪問の2か月後、ルーズベルトはソウルのアメリカ領事館閉鎖を命じた。アメリカの次席外交官は「沈みゆく船からネズミがどっと逃げ出すように」放棄したと述べている。朝鮮の高宗の使節が日本軍の侵攻を止めるように懇願したとき、ルーズベルトは冷淡にも、もうすでに朝鮮半島は日本の一部であるがゆえに、日本政府に訴えるべきだと、呆然とする朝鮮の使節団に伝えたのだという。

第一次世界大戦

1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルナンドが狂信的なセルビア人にサラエボで暗殺されたため、オーストリア=ハンガリー帝国セルビアを処罰しようとし行動を起こし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は戦争を引き起こす可能性があると意識しながらも、オーストリア=ハンガリー帝国を支持する決定を下した。

第一次世界大戦時には、アメリカ合衆国と日本の兵士を除き、6000万人もの兵士が動員され、そのうちの半数以上が犠牲となった。800万人以上が戦死し、2100万人が負傷し、800万人以上が捕虜となった。

第一次世界大戦は多くの民族集団からなる4つの帝国が終焉を迎えた。ロシア帝国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国は、1914年から1918年の間にヨーロッパを覆いつくした革命と暴力の波の中で崩壊した。第一次世界大戦末期、ドイツ人の多くは自分たちが敗北しているとは感じていなかった。1918年11月、ドイツ軍が降伏したとき、ドイツ陸軍はベルギーとフランスに展開中で、翌年の春季攻勢によって勝利が目前であると考えていた。東部戦線においては、ドイツはすでにロシアとの戦争に勝利しており、ブレスト=リトフスク条約により、ドイツに有利な条件を獲得していた。ドイツ敗北は、軍需産業ストライキのせいで、決定的な攻撃に必要な補給に失敗したためとみなされていた。ズーデン地方(チェコスロバキア西部)、ポーセン西部プロイセンの何百万人のドイツ人は領土割譲の結果、先祖代々の土地を去った。このことが、後のヒットラーによるポーランド併合の口実となったのだ。

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は細分化され脆弱な国家群になり、ロシア帝国は革命と内戦により破壊され、新たに独立したポーランドはドイツに匹敵するような国家ではなかった。フランスもベルギーもドイツより人口が少なく、また経済的にも脆弱だった。このためドイツの経済は戦前のレベルまでは速やかに復活を遂げたのだ。