磯田道史先生の「司馬遼太郎」で学ぶ日本史を読んだ。タイトルの通り、司馬遼太郎の作品を肴に磯田先生が戦国時代、幕末・明治、そして、司馬遼太郎をして鬼胎と言わしめた戦前の昭和を語る読み物だ。
「国盗り物語」
まず俎上に上がるの国盗り物語だ。磯田先生は、国盗り物語を以下のように読み解く。
ひとつは、合理的で明るいリアリズムを持った、何事にもとらわれることのない正の一面。そしてもうひとつは、権力が過度の忠誠心を下の者二要求し、上位下逹で動くという負の一面。(略)
この二面性を持ったものが天下人、すなわち「公儀」という形で、戦国末期の日本に出来上がりました。司馬さんは自分に拳骨をぶつけてきた日本陸軍の「先祖」が濃尾平野から生まれてくる過程を「国盗り物語」で描き切ったのです。
ここで述べている負の面に関しては本書で何度も出てくるが、司馬遼太郎をして鬼胎と言わしめた、軍隊の暴走につながる部分で、重要な分析だ。
「花神」
大村益次郎について書かれている「花神」では、大村益次郎を徹底した合理主義で時代を動かすリーダとして描いたと分析しているが、それと同時に無私の精神の持ち主だったとも述べている。医者の出であることから合理主義になったのであろうと述べているが、磯田先生は明確には述べていないが、無私の精神もきっと医者の出だったからだろうと思う。それはひとえに緒方洪庵の「医戒」が医者のあり方を無私となるべきと論じているからである。
「医師がこの世に存在している意義は、ひとすじに他人のためであり、自分自身のためではない。これが、この業の本旨である。ただおのれをすてて人を救わんとすることのみ希うべし」
ここでも昭和陸軍の原型として長州藩の「凶挙」というのが述べられている。楠正成の故事を引き合いに出し、勝てる見込みがないのに、忠義・動機が大事だと情緒的な妄動を行い破滅してしまう。この部分も軍隊の暴走につながる負の面である。