隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

勝ち上がりの条件

半藤一利氏と磯田道史先生の勝ち上がりの条件 軍師・参謀の作法を読んだ。本書は半藤一利氏と磯田道史先生の対談になっており、軍師・参謀について色々語っている。

本書の副題に「軍師・参謀」と書かれている。まずこれについての言及がある。どちらも組織の代表者・トップではなく、トッブの代理として軍事・政治・外交の実務を担当するものであるが、実際には軍師と参謀は役回りが異なっている。また、軍師と言っても、中世的な軍師と近世的な軍師では性格が異なっている。参謀とは近代軍事組織の中で生まれた役回りで、軍師とは全然違っていることが語られる。

まず中世的な軍師についてであるが、鎌倉から室町を経て、戦国時代の初期ぐらいまでの人たちが戦を始める際に重視していたのが「占い」とか「おまじない」である。軍師は、暦や易のみならず、雲の流れ、風の方向・強さ、星の動きと言った天体の動きも見、そのようなものから合戦の日取りを決めていた。合戦の日取りが決まると、陣を張る方角もおまじないで決めていた。次に行うのは出陣式だ。これは戦に勝つための非常に大事な儀式なので、軍師はその祭祀の作法・手順を熟知していなければならなかった。出陣式の儀式として「三献の儀」というものがあり、「打鮑」「勝栗」「昆布」を出して、これに口を付ける。これらの品は「討ち、勝ち、よろこぶ」に通じ、縁起を担いでいたのだ。これらのことは、軍勢催促状により集められたという組織化されていない複数の衆を統合するための儀礼で、統一するための手段であった。このことによってしてか統一的な一体感が演出でき、そのために中世の軍師にはシャーマン性が求められていた。

そして、いざ戦闘となると、戦闘状況に対して適切なアドバイスを大将に進言することになる。戦闘が終了すると、首実検をすることになる。

一方、近世の軍師たちは中国の兵法書の影響があり、間接戦略を重んじる傾向になっていった。事前調査を行い、裏から手をまわして切り崩したり、調略したりということが上策とされた。孫子、呉氏、六韜三略では「戦わずしてかつ」というのが重要視されていたからである。ヨーロッパで「戦わずして勝つ」という哲学に到達するのはクラウゼヴィッツの「戦争論」の登場まで待たなくてはならい。それはナポレオン後の19世紀前半である。「戦争論」では「勝つ」というのは敵を皆殺しにすることでも無力化することでもなく、「こちら側の意思の通りに動いてくれたら、それは勝ちである」と断じている。

参謀というのは指揮権を持たないものであるが、一方軍師は通信手段が限られている場合は指揮権を委任される場合がる。

幕末に軍制ががらりと変わった時は本当に大事で、元士族である兵には、馬から降りて銃を持つということなど想像できなかった。銃を持つことは足軽になることを意味しているからであり、武士の身分から転落することになる。家名を汚すことになる。幕末の鳥取藩の話であるが、軍監が「前へ進め!」と号令をかけても、絶対に前に行こうとしなかった。なぜなら、足軽が最前列、次が徒士、というように身分が高くなるほど前線から遠ざかり、一番奥まったところにいる殿様の近くにいるのが高級武士。それが伝統なので、一歩前に出ると家格が下がってしまうことになるからだ。それで前に出なかった。さらに、彼らはやはり銃を持とうとしなかった。武具の中で銃は一番格下と位置づけられていたからである。

西南戦争の時は軍は政府直属だったので、作戦の執行に当たっては、いちいち政府の許可を得なければならなかった。そのため、大事な局面で後手に回ることになり、敵を利する事態が起きてしまった。これではいかんと言うので山県有朋が群を政府から切り離した。統帥権の独立だ。これが後々昭和の悲劇を起こすことになってしまった。政治と軍事を分けてしまったので、それを束ねる「国家の所有者」の合議が必要であった。「国家の所有者」とは明治維新の功労者のことで、「元老」のことだ。元老が元気なうちは元老会議が軍部を牽制することが可能であったが、最後の元老西園寺公望がなくなると、誰もコントロールできなくなる。