隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

一九三九年 誰も望まなかった戦争

フレデリック・テイラーの一九三九年 誰も望まなかった戦争 (原題 A People's History The War Nobody Wanted)を読んだ。本書は第二次世界大戦に至る英独開戦状況を、当時の新聞、日記、回想録あるいは実際のインタビューによって事細かに追っていった記録で、1938年の秋から1939年の秋までの時間軸で描いている。回想録というのはそれなりの地位にあった人物のものでなければ存在しないが、日記に関しては一般の市民の記録したものを参照しており、当時の人々が英独が対立している状況をどのように見ていたのかがよくわかる。

第二次世界大戦がはじまる前に、オーストリアドイツ第三帝国に併合されているが、第一次世界大戦後からオーストリアは共和制ドイツに参加しようとしたが実現せず、また1931年には関税同盟を目指したが、これも戦勝国側に阻まれた。そこから結局は第三帝国に併合されてしまうのだが、本書の時間軸の対象外になっていて、その点は残念だ。ドイツはどのような手段でオーストリア併合を正当化したのだろう?

ユダヤ人に対する政策

1938年10月1日に外事警察令が施行され、ドイツで生活しているすべての外国人はドイツにとどまるための権利を奪われた。この外国人の中には、ドイツの市民権を剥奪された人も含まれていて、1933年以降、多くのユダヤ人やナチスの政敵がその対象になっていた。なぜ、ユダヤ人が摘発されて、収容所に送られていたのかということに関してはよく理解していなかった。というのも元々彼らもドイツの市民権を持っていたのに、どうしてなのだろうと漠然と思っていたのだが、その理由がこの法律の施行なのだという事が分かった。1938年10月5日、ドイツ政府は国内のユダヤ人の旅券を無効化し、14日以内に自分の旅券を提出することを求められた。そして、大文字のJのスタンプが押されたのだ。この手続きの後、旅券は再び有効化された。

実は同様の政策がポーランドでも行われていた。10月6日、5年以上継続して外国に住んでいるポーランド市民は母国との関係が切れたと見なすことを決定したのだ。かれらは滞在国の領事館で旅券のチェックを受け、審査に通らなければ国籍を失うことになった。これはオーストリアがドイツに併合されたことを受けての政策だ。オーストリアやドイツに住むユダヤ人の中にはポーランド市民も多くいた。彼らがポーランドに戻れないようにしたのだ。

このような状況になりユダヤ人の移住はドイツからだけでなく、中央ヨーロッパや東ヨーロッパからも見込まれ、その人数は1200万人から1500万人になることが予想された。しかし、その人数を受け入れ可能な土地・国はなかった。

イギリスの宥和政策

ドイツのチェコスロバキアのズデーテンの併合、チェコスロバキア全土の併合と段階を踏みながら事態は進んでいくが、この時点ではイギリスの基本政策は宥和政策であった。「宥和」という言葉だと「融和」と紛らわしく実感を伴わないが、いわば見て見ぬふりで、非難はすれども具体的な行動はしなかった。

一方ポーランドに関しては、1939年8月にイギリス・ポーランド相互援助条約が締結され、これが根拠になり、ポーランドに軍事侵攻したドイツとの開戦が行われることになる。しかし、イギリス・ポーランド相互援助条約が締結されたのは8月25日で、開戦の正に一週間前のことだった。多分だが、この時点までイギリスには宥和政策を変えるつもりはあまりなかったのではないだろうか?だが、一応イギリスも、何の対応をせずに徒に時を浪費していたわけでもなさそうだ。というのも、当時イギリスはヨーロッパ列強の中で唯一徴兵の義務を課していなかったのであるが、1939年5月26日に軍事訓練法を可決した。これは20歳と21歳の男子を半年間訓練目的のために招集するというもので、招集された訓練兵の身分は民兵だった。

全般的にイギリス市民もドイツ市民も実際に戦争が起きると思っていた人は少なかったのだろうと想像される。ただし、イギリスは1939年の9月にかけて急速に戦時体制に向かっていくように見える。というのも子供の疎開が行われたり、毒ガス用マスクの準備や、灯火管制用のカーテンや防空壕の準備など、市民レベルでも色々なことが起きているのだ。そして、1939年の9月にだれも望んでいなかった戦争がヨーロッパで始まったのだ。

数学の大統一に挑む

エドワード・フレンケルの数学の大統一に挑む (原題 Love and Math The Heart of Hidden Reality)を読んだ。エドワード・フレンケルは旧ソビエト出身の数学者で、現在はラングランズ・プログラムという数学の中の異なる分野間の概念にお互いに密接に関係していることを探る、ある種数学を統一化する概念を研究している。実はこのラングランズ・プログラムというものに興味があり、なんとか少しでもわからないものだろうかと読み始めたのだが、最初はなんとなくわかっているような気がしたのだが、後半に行けば行くほど理解が全くできず、残念ながら理解できなかった。

本書はフレンケルの自伝的な部分、彼のこれまでも研究、そしてラングランズ・プログラムがどのようなものかという事が記述されている。自伝的な部分はフレンケルが数学を目指し始めたころから始まるのだが、実は彼の家系はユダヤ人で、1980年代後半のソビエトの数学界ではユダヤ人に対して厳しい差別があったことがまず書かれている。そもそも、宗教が認めたれていないソビエトにおいてユダヤ人という概念が存在すること自体奇妙なのだが、ソビエトではユダヤの家系・血筋を引くものがユダヤ人とみなされ、差別の対象となっていた。そして、当時は成績が優秀でもモスクワ大学の力学数学部というソビエト数学教育の中枢には入学が許されていなかった。別の大学に行ったとしても、大学院に進むことが極めて難しく、就職先を探すのも困難を伴っていた。フレンケルはモスクワ大学を受けるが口述試験で嫌がらせをされて入学できず、石油ガス研究所という日本語に直すと大学とは思えないような名前の大学に入学した。

フレンケルはただ楽しかったから数学の研究を続けてきたと書いてはいるが、興味深かったのは、ソビエトにおける共産主義と科学の関係に関する記述だった。ソビエトではあらゆる学問が共産党の厳しい管理下に置かれ、マルクスレーニン主義と相容れない考えを持つものは弾圧されていた。しかし、数学と理論物理学だけは比較的自由だったというのだ。なぜなら、この分野があまりにも抽象的で難しく、党首脳部が理解できなかったためで、だがそれらの学問が核開発には不可欠であることだけは彼らが理解していたからだというのだ。フレンケルは多くの才能ある若い学生たちが数学を職業として選んだのはこのためだと考えているようだ。