隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

『源氏物語』の時間表現

吉海直人氏の『源氏物語』の時間表現を読んだ。この本の内容は序章からかなり衝撃的だった。何が衝撃的だったかというと、平安時代は時間的な日付変更が午前三時に起きていたということだ。つまり、午前3時を超えた時点で、新しい一日が始まるというのだ。このことは全く知らなかったし、そのことが何の説明もなしにあたかも公知の事実であるかのように淡々と書かれていることに驚いた。こんな話は今まで一度も聞いたことはなかった。考えてみると、「あした」という語には「翌日」という意味もあるが、「朝」という意味もある。同様に、「ゆうべ」にも「昨日の夜」という意味もあるが、単に「夕方」という意味ものある。このことは今までなんとなく不思議に思っていた。このことは絶対時間は同じなのだが、午前三時を跨いだか、跨いでいないかで、意味合いが違ってくるのだろう。

この午前三時(正確には、明治より前は十二支を用いるので、寅以降と表現すべきではある)の話は繰り返し述べられている。実はそのことが言われだしたのはここ10年ぐらいのことなのだということが、後の章の4章で明かされて、そんなに昔のことでなくてホッとした。

本書のタイトルには「源氏物語」と書かれているので、源氏物語に関してかなり紙幅をついやしているが、それだけではなく万葉集枕草子蜻蛉日記なども調査してどのように語が使われているかを調べている。

平安時代陰陽寮に属する漏刻博士と守辰丁により漏刻を用いて時間を計測していて、宮中では各時刻に時を奏していた(時奏)。そのため、この頃は今と同じ定時法だった。これは江戸時代には不定時法であったのとは対照的である。平安から江戸時代に移る過程で不定時法に変わったと思われるが、詳細は不明だ。ちょっと驚くのは、宮中では24時間時奏していたということだ。亥の一刻から子の四刻は左近衛夜行官人、丑の一刻から寅の四刻までは右近衛夜行官人が担当していた。

宮中以外では寺などで勤行に合わせて鐘をついていた。晨朝(午前七時)、日中、日没、初夜、中夜、後夜(午前三時)に鐘をついた。また、鳥の鶏の鳴き声も時刻を知る一つも目安であったようで、実際はどうかわからないが、午前三時ごろ鳴くと考えられていたようだ。そして、その時間が、男が女のもとを去る時間として認識されてたというのだ。

この本を読む前は「暁」とか「夜明け」は何となく朝焼けのイメージがあり、太陽が地平線に昇ってくる直前の頃と思っていたのだが、暁はもっと前の時間で寅の刻が暁で、まだ空は暗いままととらえるのが正しいようだ。また、東雲と書くしののめも言葉としては知っていたが、意味はよくわかっていなかった。どうやらこれは東の空が暁光を受けて色づいている様で、だから朝方を表す言葉なのだ。

中世イングランドの日常生活: 生活必需品から食事、医療、仕事、治安まで

トニ・マウントの中世イングランドの日常生活: 生活必需品から食事、医療、仕事、治安まで (原題 How to Survive in Medieval England) を読んだ。本書はタイムトラベルが可能になり、中世のイングランドに行ったときに不便にならないようにするためのガイドブックという体をした読み物である。

ノルマン人のウィリアムがアングロサクソンの最後の王ハロルド2世をヘイスティングの戦いで破ったのが1066年だ。ウィリアムにはイングランドは豊かな土地に見えた。当時は三圃式農業が確立しており、穀物(小麦、大麦、オーツ麦、ライ麦)、マメ科植物、家畜を放牧する休耕地を順番に交代させて、土壌が豊かな状態を保つようにしていた。各戸には家庭菜園があり、キャベツ、リーキ、ハーブを育てている。どの村にも共有地があり、村人が放牧したり、リンゴ、プラム、サクランボなどの果樹園がある。ウィリアムは戦争に出ていないときは、イノシシ、シカ、オオカミなどの狩りをし、そのために御料林(forest)を制定した。森(woodland)と御料林の違いは、後者は王の狩場なので、薪を集めることも、動物を捕まえることもできない。御料林に矢を持ち込むだけで、目つぶしや手の切断、耳を切り落とすという罰が与えられた。

14世紀に入るころ、人口が中世時代のピークになり、食料確保のために三圃式が二圃式となり、その結果土地がやせ、生産量が低下した。耕作地を増やすために、森や荒野まで耕し、湿地帯も耕された。しかし、これらの土地は痩せていたので、労力の割には生産量が上がらなかった。イングランドの森は大きく面積を減らし、風景は一変し、燃料を手に入れるのが難しくなった。14世紀に入って数十年で気候が変動し、厳しい冬と雨が多い冷夏になり、作物は育たず、収穫前に畑で腐ることもあった。転機は1348年ペストの発生だ。14世紀前半から町が形成されつつあったが、町はごみごみし不衛生で、病気を蔓延させた。2年も経つとイングランドの人口は半減し、ペストは根絶されないので、その後の中世期も人口が回復することはなかった。

プランタジネット朝最後の王リチャード3世がボズワースの戦いで戦死する1485年には、イングランドの風景は森の多くを取り戻しており、減少した人口を賄うのに十分な農業も行われるようになっている。この頃には大きな土地を生垣て囲って耕作地の畑と仕切り、牧草地にしている。ヒツジの飼育が増加しており、ヒツジの群れの餌になる広大な牧草地が必要なのだ。ペストが流行し、大勢の人々が命を落とすと人手不足になった。そのため貧しい人々は領主に高い報酬を要求するようになった。人が死んだので空き家が多く発生し、領主の収入は激減した。領主たちは失った収入を補填するためにヒツジの放牧を始めたのだ。通常は数人の羊飼いがいればよく、毛を刈る時期だけにいくらかの人手が必要なだけだ。羊毛の輸出は収入の減少を補って余りある状況で、これは16世紀に人口が増加するまでつづいた。領主は広大な牧草地を確保するので、食料生産のための土地が不足した。

中世に衛生という概念はない。トイレも当然水洗ではないので不潔なところだ。高価な晴れ着は蛾に目を付けられないと信じられている場所であるトイレに吊るしておいた。トイレは悪臭を放つので蛾が寄り付かないと信じられていた。garderobeやwardrobeは中世では屋内トイレを意味する単語だが、そこは衣類(robe)を守り(guard)害虫を避ける(ward)場所だった。

社会階層として一番低い身分は農奴だが、イングランドには14世紀まで農奴という言葉は使われていなかった*1。英語で農民(小作農)を意味する単語はpeasantであるが、これはフランス語のpaysanがもとになっていて、そのフランス語の意味は田舎の住民だ。イングランドではpeasantを最貧の人々を表現するのに用い、それは侮辱の意味だった。農奴にもヒエラルキーがあり、農奴の上には隷農がいる。自由度は若干高いが、農奴同様に移動の自由はない。上で説明したように、ペスト以降労働力が減少し、生き残った者の多くは領主の許可なく、地代が安く高い賃金を稼げる場所に移動した。こうした隷農(villein)は犯罪者であり、そこからvillain(悪者、悪党)という言葉が生まれた。

時は教会の鐘で知ることになるが、教会がどのように時を知っていたのかについては本書には書かれていなかった。修道士、修道女が教会で祈る時間になったことを告げる鐘を鳴らした。時計を意味するclockはフランス語のclocheがもとになっていて、誤った綴りが伝わったようだ。フラン後のclocheは鐘を意味する。

娼婦は世界最古の職業とはよく言われる言葉だ。中世のロンドン市は娼婦の仕事の管理に乗り出し、テムズ川を渡ったテザークなら市の名誉を傷つけないと考えた。テザーク内のリバティ・オブ・クリンクはウィンチェスター司教区の管轄下にあり、ロンドン市の管轄外だった。ウィンチェスター司教は1161年リバティ地区の売春と売春宿を認可する権限を認められ、こうした仕事に就く女性をウィンチェスターの雌ガチョウ(Winchester goose)と呼ばれるようになった。「ウィンチェスターの雌ガチョウにかまれる」は性病をうつされること、goose bump(鳥肌)はその症状を意味するスラングだった。

*1:本書の記述ははっきりしていないが、農奴という言葉がはないが農奴はいたはずだ