隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実

小川剛生氏の「兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実」を読んだ。言わずと知れた徒然草の作者であるが、記憶が正しければ、私の若いことは吉田兼好という風に呼ばれていたと記憶している。しかし、本書のタイトルは兼好法師だ。なぜなら、兼好法師と吉田は直接的には関係ないからだ。

この辺りの経緯は第七章に書かれている。晩年の兼好は二条流の歌人としてある程度の名声を得たが、子孫も高名な後継者もいなかったため、急速に忘れ去られていった。ところが、没後七十年経った頃、徒然草が発見されたことで、急速に注目を集めるようになった。そんなころに吉田兼倶が登場する。兼倶は吉田流神道家で、彼がが構築した神道の体系は唯一宗源神道と呼ばれ、神本仏迹説 (本地垂迹説の反対で、仏は神が仮に現れた姿とするもの) をその骨格とする。神道家としての吉田流の歴史て華々しいものではなく、先祖の事績はほとんど知られていない。卜部氏では平野流が嫡流で、吉田流はその後塵を拝していた。そこで兼倶は次々に文書記録を偽造し、各時代の著名人が吉田流の門弟であったと言い始めたのだ。

例えば、鎌倉前期では、藤原定家らの新古今家人は吉田流の兼直の弟子となり、歌道の奥義を得たと吹聴した。鎌倉中期では日蓮であった。日蓮種が勧進する法華三十番神は兼直の孫の兼益が日蓮に授けたものだと主張する。そして、鎌倉後期の天台僧慈遍や兼好を一門として取り込んだ系図を拵えたのだ。この辺りの兼倶の歴史捏造に関しては、渡会延佳の神敵吉田兼倶某計記や吉見幸和の増益弁卜釥俗解などの後世の吉田神道批判書に書かれているという。

では、兼好法師という人はいったいどういう人なのか?金沢文庫の古文書に残る紙背文書*1に兼好にかかわる手紙が残っていた。そこから分かることは以下のとおりである。

兼好は卜部兼好と言い、仮名を四郎太郎と言った。一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定される。そこから伊勢国の守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活躍し、称明寺長老となる以前の明忍房釼阿とも親しく交流し、正安元(1299)年に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したと思われる。しかし、姉は鎌倉にとどまり、小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三(1305)年夏以前、おそらくこの姉を頼って、再び下向した。そして、母の指示を受け、施主として父の七回忌を称明寺で修した。更に延慶元(1308)年十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し、釼阿から北条貞顕への書状を託された。また、同じ頃、おそらくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し、発送した。

以上のことからすると、吉田兼好と呼ぶのは不適切で、兼好法師と呼んだ方がよさそうだ。

*1:紙が貴重品であった時代、書状が使用目的を達して廃棄されると、典籍の書き写しに使われた。その一時利用面に遺った文書の事