隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

隠された悲鳴

ユニティ・ダウの隠された悲鳴(原題 The Screaming of the Innocent)を読んだ。アフリカのボツワナのハファーラという村でネオという名の12歳の少女が行方不明になった。村人や警察が1週間かけて捜査したが、行方はつかめず、死体も発見できなかった。その後、血の付いた少女の服が発見され、警察に届けられたが、その証拠品は忽然として警察からなくなり、事件はライオンにより襲われたという結論をもって、捜査は終了した。しかし、遺体や骨の一部も見つからなかったのだ。だから、村人は納得できなかったが、それ以上なすすべがなかった。それから5年後、国家奉仕プログラムの参加者としてアマントルはハファーラにある診療所に派遣された。彼女は診療所の助手として働けると思っていたのだが、割り当てられた仕事は倉庫の片付けだった。だが、アマントルはその倉庫で、紛失されたあの少女の服を発見したことで、止まっていた時計が動き出したのだった。

読む前は、あらすじを見て、かってに「ミステリーなのかな?」と思って読みだしたのだが、物語の最初で、事件にかかわっていると思われる男たちの記述があり、「倒叙物なのか?」と思って読み進めたのだが、これはミステリーではなかった。あらすじにも「儀礼殺人」という言葉が出ているし、本書の最初に「ある儀式にのっとって、人体の一部を得るために行われる殺人」と説明が書かれている。でも、この儀礼殺人の目的は何なんだろう?それは本書の中に書かれているのだが、そんなために殺人が行われるというものある種の驚きだし、その存在を現地の人たちも知っているというのも驚きだ。そのような行為に手を染める人はごくごく少数だとしても、呪術的な力を得るための方法として人々の間に広まっているというのだ。

物語は、アマントルが服を発見したことにより、事件を隠蔽した警察と村の対立という構図になり、アマントルが村人側の交渉役として何とか事件の再捜査を勝ち取ろうというストーリーにつながっていく。その部分は読んでいて小気味良い。だが、最後の最後に驚きが隠されている。それはネタバレになるので当然触れることはできない。

この物語の中には色々な対立が描かれている。中央と地方。公権力と村民。力を持った年寄りと無力な若者。男性と女性。ボツワナは日本と比べるとこの差が大きいのかもしれないが、日本にもこのような対立はそこかしこにある。救いなのは、儀礼殺人などというものがないことだけだ。私が浅学で知らないだけという事がないことを願う。