隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

大学教授のように小説を読む方法

トーマス・C・フォスターの大学教授のように小説を読む方法 (原題 How to Read Literature Like a Professor)を読んだ。ここでいう大学教授とはアメリカの大学の英米文学科の教授のことだ。小説、あるいは物語の裏に一体どういう著者の意図があるのか?という事を解説した本だ。例えばある場面で鳥が出てきたとする。一度だけならただ単に出てきたのだろう。二度出てきても、単なる偶然かもしれない。だが、三度あったなら、そこには何かの傾向があり、著者の意図があるのだろうという事だ。物語には元となる何らかの物語が往々にしてあり、欧米の文学ならば、それらは聖書、ギリシャ神話、シェークスピアなどであろう。残念ならがこれらのことに関して私は通り一遍の知識しか持ち合わせていないので、物語の中に作者が隠した何らかの意図に気づけないでいる。

例えばこの本にキリストを特徴付ける18の項目が上がっている。

  1. 十字架にかけられている。両手、両足、脇腹、頭に傷。
  2. 悶え苦しんでいる。
  3. 自己犠牲。
  4. 子供の扱いがうまい。
  5. パン、魚、水、ワインの扱いがうまい。
  6. 33歳で姿を消す。
  7. 大工として雇われている。
  8. 移動手段が質素、特に徒歩やロバを好む。
  9. 水の上を歩いたと信じられている。
  10. 両腕を広げた姿でえがかれる。
  11. 未開の荒野で独りで過ごした時期がある。
  12. 悪魔と対峙した時期があり、誘惑されたことがある。
  13. 最後に姿を見られて時、盗賊と一緒にいた。
  14. 多くの箴言やたとえ話を作り上げた。
  15. 埋葬され、三日後に生き返った。
  16. 弟子がいる。当初は十二人いたが、その熱意には温度差あり。
  17. きわめて寛大。
  18. 穢れた世界を救うために登場。

さて、ここに一つの物語がある。この物語には一人の男が登場する。男はもう若くはなく、実際には老人だ。しかも、貧しく、地味な仕事についている。大工ではないが、漁師としよう。この老漁師は長い間ツキに見放されて、すっかり信用を失っている。この物語では疑いや不信心が横行している。しかし、彼に絶対の信頼を寄せる少年が一人だけいる。少年の両親を含む誰もがこの老人を疫病神とみなしているので、少年は老人についてくことを禁じられている。ところが、老人は子供の扱いがうまく、少年という弟子がいるのだ。この世界は汚れて、卑しく、堕落しているが、老人自身は純粋な人物だ。
孤独な漁に出た老人はついに大魚を捕らえるが、魚があまりも大きいので、逆に引きずられて、行ったこともない大海に出てしまう。海が未開の荒野になってしまうのだ。独りぼっちの老人は、激しい肉体的苦痛にさいなまれ、自信を失いかける。大魚との戦いの間、両手は擦り剝け、脇腹の骨が折れたような気がする。だが、老人は様々な名言で自分を鼓舞するのだ。そして、三日間老人が海で戦っているうちに、陸では老人が死んだと思い込む。釣り上げた大魚はサメに食い荒らされるが、その巨大な骨だけを引いて港に帰ってくる。帰港はまるで復活のようだ。老人は海から上がると、マストを担いで丘の上のあばら家まで帰る。その姿は十字架を担いでいるように見える。戦いに疲れ果てた老人がベッドに倒れ込み、磔のように両腕を広げると、両腕の生傷が見える。翌朝大魚の骨を目にした村人たちは再び老漁師に信頼を寄せるようになる。かれは、この堕落した世の中に一種の希望と贖罪をもたらしたのである。そうこれは「老人と海」だ。ヘミングウェイがなぜ「老人と海」にキリストを投影したのかはわからないが、これは意図的に描いていることに他ならない。

ドラキュラの話も興味深かった。ブラム・ストーカーによって書かれたドラキュラの物語はトランシルバニア地方の伝承を基に書かれたものだと思っていた。伝承を取り入れて物語を組み立てたのだと。この物語が書かれたヴィクトリア朝時代の人たちにはあからさまに描けないことがあった。性行為や性的欲求に関してがそうで、だから、形を変えて作品の中に忍び込ませたというのだ。そして、それだけではなく、吸血行為というのは形を変えた搾取の構造であり、自分の欲しいもののために他人を利用すること、自分の要求を通して、誰かの権利を否定することなのだと説明している。そう考えると、今の時代では性行為や性的欲求を文字で書くことは可能であるが(もちろん不適切な場合もある)、にもかかわらず、未だにヴァンパイアが物語に登場する真の動機とは何なのだろうと考えてしまう。

本書の最後の方に「テスト・ケース」という章があり、キャサリンマンスフィールドの「ガーデン・パーティ」が掲載されている。教授はこの小説を読み解くように言うのだが、表面的なことはなんとなくは分かるが、その裏側にあることはさっぱりわからなかった。そして、この小説の裏側に何があるのかを説明されると、いかに自分が表面的なことにしか思い至っていないことに気付かされる。文中に不思議な表現が出てきたら(この小説の場合は、「大きな犬が影のように走り抜ける」とか「両足を新聞紙においている門番のような老女」などは明らかに不思議だ)、わからないにしても考えるべきなのだろう。

日本においては、古事記日本書紀源氏物語平家物語や歌舞伎、浄瑠璃や御伽噺が古典にあたるのだろうし、明治の文豪の作品も古典であろう。すべての日本の小説がこれらの古典を物語に忍び込ませているわけではないだろうが、不思議な表現に出くわしたら、流し読みをせずに考えてみるべきなのだと思う。