隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

もういちど読む 山川 日本史史料

もういちど読む 山川日本史史料を読んだ。本書は山川出版の詳説日本史に掲載されている史料のうち48点を選んで解説している。史料は現代語訳されており、解説も付いているので読みやすいのだが、原文もぜひ載せてほしかった。

大化の改新の詔

日本史のツボ - 隠居日録で公地公民とか班田収授法はあまりきちんと機能していななかったのではということが書かれていたが、どうやら日本書紀に書かれている大化の改新の詔自体の信憑性が疑われているらしい。近年の考古学的な発掘の成果(特に木簡)により、645年当時「郡」という漢字は使われていなかったということが知られるようになってきた。それは藤原京の発掘により、木簡には「評」という文字が使われていたことが分かった。藤原京は694年から710年であり、「郡」は701年の大宝律令以降用いられた漢字であるので、詔に用いられるのならば「評」の漢字だったはずである。どうも、720年に完成した日本書紀を書くにあたり、大宝律令を見て「郡」としたのではないかというのが、最近の説のようだ。

肥後国鹿子木荘

東寺百合文書中の肥後国鹿子木荘の権利関係の文書を示して、当時の本家―領家ー荘官という伝領関係について説明しているのだが、まず、荘園が増加するのが摂関政治の頃でなく、院政期(特に鳥羽上皇時代)というのが興味深かく、この事は全く知らないことであった。肥後国鹿子木荘は寄進地系の荘園であるような文書が東寺に残されているのだが、それは東寺の権利を主張するために書かれたもので、本当は鳥羽上皇側からの強い働きかけがあって、荘園が成立したようだ。このような上からの働きにより成立した荘園を立荘と呼ぶようだ。

悪人正機

善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや

で有名な親鸞の根本思想であるが、ここで述べられている悪人、そしてそれとついになる善人について、わかっているつもりでわかっていなかったことが今回わかった。善人とは「自分で修業や善行を積むことができる人」であり、悪人は「自分の力を頼む心をきっぱりと捨てて、阿弥陀仏の他力にすがる人」というう意味なのだ。だから、阿弥陀の他力により悪人が往生するということだ。

五箇条の誓文

「どのような儀式が行われたのか」という説明の所で、

由利・福岡案では、天皇が諸侯と盟約するというものであったが、諸侯との盟約に対し公卿層からの反発が強く、木戸らによって、天皇が群臣を率いて神々に誓うという形式に改められた。

と書かれていて、興味深い。この辺りから神道への傾倒が起きていたのだろうか?それと、五箇条の誓文が発せられた翌日に五榜の掲示というのがなされたようなのだが、そこの第三札に切支丹・邪宗門厳禁があり、なんとなく明治政府になってからはキリスト教に対する対応はすぐに変わったのだろうと思っていたが、この時点ではまだ認められていなかったようだ。

徴兵告諭

明治になり徴兵制が敷かれたが、やはり国民には受けがよろしくなく、反対一揆があったようだ。それを血税一揆と呼んだ。今時血税というと「血を搾られるような苦労をして納める税金」という意味が大半を占めるが、徴兵告諭にある「西人之を称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり」から血税一揆と呼ばれたようだ。

戦国合戦の舞台裏

盛本昌広氏の戦国合戦の舞台裏を読んだ。後方支援とか兵站が戦国時代どの様であったのだろうかという興味から本書を読んだのだが、本書のカバーしている範囲が意外と広く、後方支援とか兵站に関しては触れていることは触れているのだが、知りたいと思っていたことはあまり得られなかった。

本書でカバーしているのは、出陣、進軍、兵站・軍事物資確保、陣地内の生活、対陣・防御、退陣、陣取の項目。

本書にも書かれているのだが、兵糧自弁が原則だというのだが、果たして本当なのだろうかというのが第一の疑問だ。一週間ぐらいの出陣期間ならまだしも、期間が1か月以上にも及んだ場合、各自で食糧等を確保していたら合戦にならないだろうというのが疑問なのだ。しかも本書でも、「兵糧の輸送は一般に百姓によって行われた」と書かれており、最初から自己矛盾するような説明になっている。ただし、信長・秀吉の頃から兵糧自弁の原則が崩れてきたと説明が後の方でなされているので、そちらの方の説明とも思えるのだが、当該箇所には「兵糧輸送は小荷駄隊が行い」と書かれており、北条氏康のことが記載記載されているので、どう理解するのが適切なのか混乱してしまった。

百姓は足軽として徴用されることもあるが、上記のように小荷駄隊のために徴用されることもあるし、相手方の田畑を収穫前に、あるいは収穫期に刈り取る「刈田」のために動員されることもあったらしく、たしかに刈田をするのならば百姓に任せた方が効率が良いのはその通りだろう。また、刈田というと対象は稲というイメージがわくが、麦に対する刈田もあったようだ。