隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

invert 城塚翡翠倒叙集

相沢沙呼氏のinvert 城塚翡翠倒叙集を読んだ。あの城塚翡翠の続編が出るとは思っていなかったので、かなり意外だった。というのも、前作の構成があまりにも見事で、あの構成を踏襲した形での続編は無理だと思ったからだ。なので、この作品はタイトルのように倒叙物になっている。作者は物語の最初で犯人を明らかにしていて、探偵の城塚翡翠がどのようにして犯人の犯罪の証拠を発見するのかというストーリになっている。それと各ストーリーの後半で、翡翠が犯人のトリックを見破ったところで読者への挑戦状が翡翠から出されるのも共通の構造になっている。本作は中編集で3作収録されていて、タイトルはそれぞれ「雲上の晴れ間」、「泡沫の審判」、「信用ならない目撃者」となっている。城塚翡翠が霊を感じることができるという設定を今回のストーリー上でも出しているが、その霊の力を借りて謎を解いているわけではないのは前巻と同じところ。

目次の所に「medium霊媒探偵城塚翡翠の結末に触れています」と書かれているので、medium霊媒探偵城塚翡翠を先に読んでおいた方がいいだろう。こちらを先に読むとmediumの面白さがなくなってしまうからだ。ただし、medium霊媒探偵城塚翡翠を読んでいなくても本書を読むうえでは問題はない。ストーリー自体は完全に独立だ。

やはり前作のインパクトが大きかったので、それと比べるとという感じはあるが、三編目の「信用ならない目撃者」はそうなっているとは思わないストーリーだったので、うまいこと騙されてしまった。倒叙物で犯人が最初に分かっているので、ストーリー自体も紹介しにくいところが、この作品の難点だろう。

信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿

信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿を読んだ。織田信長と言えば日本の歴史上の武将でも有名な人物で、知らない人はいないだろう。しかし、実際の信長の行ったことと物語の中での信長とがなんとなく混然一体となっていて、どこまでが歴史としてわかっていて、どこが後世の創作なのかよくわからない部分がある。本書は歴史としてわかっている部分(実像)と後世の創作(虚像)をテーマごとに並列にして解説しているところがユニークな点だと思う。

信長公記

言わずと知れた織田信長の基本史料で、家臣の太田牛一によって書かれた書物だ。この著者である牛一も「ギュウイチ」と発音するのだと思っていたのだが、じつは「ウシカズ」と発音する可能性が高いのだと言う。信長公記は信長の死後十数年たってから書かれているので、一次史料ではないが、他の軍記物と比べても史料的価値が高く、一次史料に準じる内容と評価されている。このことは知っていたのだが、信長公記は二部構成になっていて、本編は永禄十一年の上洛以降を一年一冊にまとめていて、巻一から巻十五まであり、上洛前の若き信長を描いたものを首巻と呼んでいることは知らなかった。牛一は生涯にわたって加筆・修正を行っていたようで、複数の自筆本が存在する。

この信長公記(実は正確な原題は不明)をもとに小瀬甫庵が書いた信長記が有名となり、信長記と言えば小瀬甫庵作という事になったので、区別するために牛一の作品は信長公記と呼ばれるようになった。

そして、更に板倉宗重の「新撰信長記」、松平忠房の「増補信長記」、遠山信春の「総見記(織田軍記)」、小瀬甫庵の「太閤記」、「太閤真顕記」、武内確斎「絵本太閤記」、栗原信充「真書太閤記」などの書物が江戸時代に表され、それを明治期に徳富蘇峰が「近世日本国民史 織田氏時代前編」にまとめ、後年司馬遼太郎が著作を書くときに参考にしたのだという。我々の知っている物語はこれらの軍記物や小説の中に書かれていることが多く、それが必ずしも実際の史実に基づいているわけではないというところにややこしさがある。

墨俣の一夜城

実はあの有名な秀吉が築いたと言われている墨俣の一夜城も全くの創作だというのだ。信長公記には「永禄四年 辛酉 五月上旬 (信長は)木曽川飛騨川大河打ち越し、西美濃へ御乱入。在々所々放火候て、其の後、洲俣要害丈夫に仰せ付けられ」と書かれているのみで、秀吉の名前は登場しない。ところが安永年間成立と思われる「太閤真顕記」には我々がよく知る、佐久間信盛柴田勝家が失敗し、その後秀吉が七日で完成させたというような物語が現れているというのだ。

信長正室

信長の性質は斎藤道三の長女だと言われている。通称帰蝶とか濃姫のうひめと言われているが、確かなことは分かっていない。帰蝶の名前は「美濃国諸旧記」に「帰蝶の方」「鷺山殿」と呼ばれたとあり、また江戸時代の軍記物「絵本太閤記」や熊沢淡庵の「武将感状記」などに「濃姫」と登場するが、両者とも「のひめ」と仮名が振られており、「のうひめ」ではないようだ。ただ、「濃姫」は「美濃の姫」ぐらいの意味しかないので、帰蝶の方が名前としては適切のようだ。

天文十八年信長の父の信秀は重病で、長年抗争した斎藤道三の和睦を図った。その結果信長と帰蝶の婚姻が決まった。この後の帰蝶の動静は信長関連の史料にはほとんど登場せず、没年も不明なので、帰蝶がらみのエピソードが小説・ドラマ等に出てきた場合はほぼ創作と考えても良いと思われる。