鈴木眞哉氏の 「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場を読んだ。いつのころだろうか覚えていないのだが、いったい戦国時代はどのように兵士は戦っていたのだろうかという疑問が湧いてきて、それに関して本を読んで調べている。それで、自分の興味を満たすために本書を読んでみた。
本章が参照している「戦闘報告書」とは
- 軍忠状 - 戦いに加わったものが、後日に恩賞を要求するために、自分の功績を指揮官に申立て、確認したという証判を受け、返却されたもの
- 合戦注文/手負注文 - 注文とはリストのことである。 軍忠状とは違い、主君や指揮官の方からの求めに応じて提出したリスト
- 感状 - 感状とは武士たちの功績に対して、主君や指揮官がお褒めの言葉を記した書状
筆者はこれらの先頭報告書から死傷原因を抽出し、それがどのように変化したかを調べて、時代によってどのように戦闘が変わったのかを推測しようとしている。時代区分はは「南北朝(1333年から1387年)」、「戦国前期(1462年から1561年)」、「戦国後期(1563年から1638年)」と分けられている。戦国が前期と後期に分かれているのは鉄砲による死傷者が出てきたためで、鉄砲の影響を調べるためにそのようにしている。
負傷者の推移
南北朝
矢疵・射疵 500人 86.06%
切疵 56人 9.64%
石疵・礫疵 15人 2.58%
鑓疵・突疵 9人 1.55%
その他 1人 0.17%
戦国前期
矢疵・射疵 457人 61.18%
鑓疵・突疵 140人 18.74%
石疵・礫疵 121人 16.20%
切疵 24人 3.21%
刀疵・太刀疵 5人 0.67%
戦国後期
鉄砲疵・手火矢疵 373人 45.21%
鑓疵・突疵 170人 20.61%
矢疵 143人 17.33%
石疵・礫疵 74人 8.97%
刀疵・太刀疵 53人 6.42%
薙刀疵 7人 0.85%
切疵 3人 0.36%
その他 2人 0.24%
戦国通期
矢疵 600人 38.17%
鉄砲疵・手火矢疵 373人 23.73%
鑓疵・突疵 310人 19.72%
石疵・礫疵 195人 12.40%
刀疵・太刀疵 58人 3.96%
切疵 27人 1.72%
薙刀疵 7人 0.85%
その他 2人 0.13%
このようにしてみると、南北朝期も戦国期も弓が主な武器として用いられていたのがわかる。そして、刀にはこの結果からも主な武器としては使われていなかったのだ。当然鉄砲が用いられるようになってからは、鉄砲が有効な武器として用いられていたのは間違いない。
本書の125ページに次のように書かれている。
学者も含めて「騎馬長槍」というようなことをいう人が多いが、あれは間違いである。鑓に限らず、馬上で長物を使うことは容易なことではなく、もっと短い鑓であった。騎馬長槍ではなく「騎馬短槍」である
この騎馬武者が戦国期にどのように戦っていたのかにも非常に興味がある。あの織田徳川連合軍隊武田軍の激突した長篠の戦いで、戦国最強とうたわれた武田の騎馬隊は一体普段どのように戦っていたのだろうか?なにが、武田の騎馬軍団を戦国最強と言わしめたのだろう?最近の研究では、長篠の戦で織田信長は鉄砲の三段打ちは行っていないという説が有力になっていおり、また、鉄砲の数も千丁だったのではと言われている。当時の戦いを現代に再現することは不可能だが、興味は尽きない。