隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制

初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制を読んだ。本書は成立から最盛期にいたる初期室町幕府について、政治体制・地方統治・室町殿義満・寺院政策などについて最先端の研究動向を一般の歴史ファン向けに紹介することを目的としている。

尊氏・直義の二頭政治論の再検討 (亀田俊和)

亀田氏の試案は、初期の室町幕府においては、直義が実質的な最高権力者「三条殿」として、幕府のほぼすべての権限を行使する体制にあったというものである。当初完全に引退する意向を示していた尊氏が、例外的に恩賞充行と守護職補任のみを行使した。これは、後期の建武政権において後醍醐天皇が充行を行っていたことが大きく反映した。初期の室町幕府においては直義の権限の大半は雑訴決断所が担当していた。

直義・義詮が担った北朝と初期室町幕府の関係 (田中奈保)

おやっと思ったのは、初期の南北朝分裂の初期の所だ。建武政権は短命で終わり、後醍醐天皇と対立した尊氏は建武三(1336)年八月光源上皇の弟の豊仁を即位させ(光明天皇)、北朝が始まった。しかし、尊氏は新たな幕府体制を安定させるためには後醍醐天皇との和睦が必須であると考えており、両統迭立への回帰を提起した。そのため、光明天皇の皇太子には後醍醐天皇の皇子成良が立てられたというのだ。その後十二月に後醍醐天皇が吉野に逃れ、和睦の交渉が中断しても、尊氏は和睦の条件を凍結し、持明院統から新たに皇太子をたてなかったし、尊氏自身も征夷代将軍にはつかなかった。

二年後建武五年八月、交渉開始を断念した尊氏は征夷代将軍に就き、その二日後光源上皇の第一皇子である益仁(崇光天皇)が皇太子に定まり、尊氏と光源上皇の二者連合が確立した。

研究対象は、細川・畠山・斯波氏だけでいいのか (谷口雄太)

この項目に、意外なことが書かれていて驚いた。熊本藩細川家の基礎を築いた細川幽斎は、細川一族の養子ではなく、細川の名字を名乗ることを許された(このようなことを入名字という)一族(佐々木大原氏)の養子だったというのだ。これは正に驚きだ。

日本国王」号と倭寇をめぐる明皇帝の思惑とは? (大西信行)

応永八(1401)年に義満は祖阿・肥富を明に派遣し、それにこたえる形で明皇帝(建武帝)から「日本国王」に封じられた。その意図について、かっては天皇権力の簒奪をもくろんでいたと論じられていたが、義満が明皇帝から与えられた「日本国王」の称号を国内向けに使った形跡がないこと、その冊封を受けるにあたって行われた儀式も極めて小規模であったことから、政治的な意図を否定し、朝貢の機会に行われる貿易の利益を得るためという経済的な面からの説明が現在なされている。

義満は、なぜ京都西郊に「北山第」を造営したのか? (松井直人)

外国人向けのサイトには
www.japan-guide.com

the temple was the retirement villa of the shogun Ashikaga Yoshimitsu,

と書かれているが、北山第は名ばかりの隠棲所であったことが研究者の間ではほぼ共通認識なっている。

義満は応永元(1394)年十二月太政大臣に上りつめることで公武社会を総べる日本史上類例のない地位を得るに至った。その際、義満は将軍職を子の義持に譲り、翌年には出家を遂げた。ただし、義持は幼少であり、出家の前後で義満の政治的地位に大きな変化はなかった。

そして、応永四(1397)年四月、義満は西園寺家の別邸であった北山第を河内国内の所領と交換して入手し、その造営を開始した。義満が当地へ移住したのは応永六(1399)年四月ごろとされ、この頃から「北山殿」という語が義満を指して用いられるようになった。