隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

歌うカタツムリ――進化とらせんの物語

千葉聡氏の歌うカタツムリ――進化とらせんの物語を読んだ。本書の第一章は以下の文章で始まる。

歴史とカタツムリはよく似ている。どちらも繰り返す。そして螺旋を描く。

本書はダーウィンの進化論がその後どのような変遷をとげてきたかをカタツムリを軸にして説明しているのだが、まさに螺旋のようにぐるぐると有意な説が入れ替わっていくさまが描かれている。

ジョン・ギュリック

1845年宣教師の家庭に育った当時13歳のジョン・ギュリックはハワイのホノルルの近郊にあるナホウスクールの寄宿舎に暮らしていた。ギュリック少年のカタツムリ収集に関する情熱は他のだれにも負けないもので、ギュリックはハワイのカタツムリの多様性のとりこになっていたのだ。彼は、ハワイマイマイ類が島ごとあるいは谷ごとに隔離され、多様な種に分かれていることを見出していた。様々な形、様々な色(黒、白、褐色、黄色、赤、緑)を組み合わせた鮮やかな模様。特にオアフ島では、山の稜線で区切られた谷ごとに色や形が様々に異なった種が分布していて、ちょうど稜線のある位置を境として、その両側の斜面にそれぞれ別の種が住んでいた。わずかな距離の隔たりで、分布する種がある種から別の種ないしは型に置き換わっていたのだ。ギュリックはこうしたパターンから、稜線などの地理的な障壁により、一つの集団がいくつかの集団に分断され、集団間での個体の移動が阻害されること(地理的隔離)が進化に重量な役割を果たすことを確信した。

1888年ギュリックはハワイマイマイ類の地理的変異に基づく種分化の理論を発表した。地理的にひとまとまりになった集団の中では、生殖的隔離の進化、即ち種分化は起こらない。種分化が起こるためには、一つの集団がいくつかの集団に地理的に隔離されなければならない。そしてその種分化は、集団が持つ性質がランダムに変化することによって起きる。

1900年にはメンデルの法則が再発見され、それとともに突然変異の効果がにわかに注目を集めるようになり、突然変異により進化が起こると考える「突然変異説」が進化のプロセスとして支持を集めるようになってきた。1905年にギュリックが出版した著書で、集団内にたまたま繁殖に参加できない個体がいたり、ランダムな死亡が起きたりすると、集団に存在する変異の構成が世代とともに変化することを示した。この考えは後に遺伝的浮動と呼ばれることになる。

ヘンリー・クランプトン

1905年にギュリックのハワイマイマイの著書を目にし、衝撃を受ける。「性質がランダムに変化して進化が起きる」というメッセージはクランプトンには受け入れがたいものだった。自分の目で確かめたいと、南洋の生物に詳しい友人に相談すると、ポリネシアマイマイを紹介された。そして、クランプトンは翌年南太平洋へとカタツムリの調査に出かけ、以来20年にわたって調査を継続し、20万匹のポリネシアマイマイについて調査した。その結果は、ポリネシアマイマイの遺伝的変異は、自然選択に対して有利でも不利でもない中立的な物ばかりであると考えざるを得なかった。そのため、「集団が地理的に隔離されたのちに、突然変異によって生じたランダムな変異が、それぞれの集団でランダムに広がってゆき、その結果、集団ごとに異なる特徴が進化する」という結論を得た。

しかし、1932年の著書の中で、「結論として、多様化の過程をより完全に理解するためには遺伝学の手法が不可欠である。そして、ポリネシアマイマイの進化をより完全に理解するためには、実験室での遺伝学実験による分析的な手法の手助けを借りることが必要だ。しかしながら、私のこの著作や以前の著作で示したような研究成果が得られるためには、限りない時間と労力を費やさなければならなかった。そのため、このような実験をすることができなかった」とのべて、自分の実験が不完全であることは認めていた。

ロナルド・フィッシャー

ロナルド・フィッシャーはロンドン屈指の高級住宅街に住んでいたが、14歳で母親を失い、15歳で父親の事業が失敗したために、ロンドンの酷く貧しい小さな家で、みすぼらしく暮さねばならなかった。しかし、フィッシャーはずば抜けた数学の才能があったため、奨学金を得て1909年ケンブリッジ大学に進学した。大学で数学を学ぶ一方、「大英帝国のため、ひいては人類のために役立ちたい」と思い、人間の生物学的な改良を目指そうと、優生学に傾倒していった。人類の進化は自然選択の結果であると考えたフィッシャーは、自然選択による進化の研究に貢献することを決意する。

1918年、フィッシャーは連続的な性質の遺伝(ダーウィンの想定)が、メンデルの法則(突然変異)と矛盾しないことを実証して見せた。フィッシャーの自然選択では、突然変異により集団に供給された遺伝子(遺伝的変異)のうち繁殖や生存に有利な資質に関連した遺伝子が、世代を経るとともにその比率を増してゆく。ある個体が産んだ子供のうち繁殖できる年齢まで生き残った子の数を適応度と呼ぶ。集団の中で適応度の高い変異が自然選択され、遺伝することよって、集団を構成する個体の性質が変化していく。もし、自然選択が働かなければ、異なる変異間で適応度に差がないー自然選択に対して有利でも不利でもないことになる。1922年に発表した論文の中で、「もし突然変異がなく、自然選択も働かなければ、集団の遺伝的変異は、世代の経過とともに一定の確率で失われる」という結論を導いた。

1930年フィッシャーはそれまでの理論を体系化した記念碑的な著作「自然選択の遺伝学的理論」を出版し、ダーウィン自然選択説とメンデルの遺伝子に基づく突然変異の融合を成し遂げたことを宣言した。また、その本の第二章で、自然選択の基本理念を提唱する―「生物のある時刻における適応度の増加率は、その時刻における適応度の遺伝分散に等しい」。

シーウェル・ライト

ライトはアメリイリノイ州の片田舎にある大学教員の家庭に生まれた。1906年地元の小さな大学に入学し、大学の上級クラスに進学したときに、母親から一冊の本を渡された。それは「現在のダーウィニズム」というタイトルの本で、ライトはギュリックのハワイマイマイの研究を知る。「谷ごとに細かく隔離された小さなたくさんの集団において、ランダムな変化が起こった結果、場所によってさまざまに色や形が異なるカタツムリがみられるようになった」という結論はライトに強烈な印象を与えた。

その後ライトはイリノイ大学に進学して修士を取得し、ハーバート大学に移りモルモットの毛色の遺伝について研究を行った。そして、1915年農務省に職を得て、ワシントンに移った。そこでの仕事はモルモットの品種改良と遺伝の研究だった。この品種改良の仕事からライトは次のようなことを発見した。個体を自由に交配させている「大きな」集団では、人による選択をかけても、変化が数世代で頭打ちになり、新しい性質をうまく進化させられなかった。ライトはこれは異なる遺伝子間の相互作用のためだと考えた。一方、兄弟姉妹でランダムに交配を繰り返して作られた少数のモルモットからなる純系の血統集団では、色の違いや指の本数の違いなど、元の大きな集団には見られない、様々な特徴が表れていた。ライトはこのような集団では、近親交配のため遺伝的な変異が減り、複雑な遺伝子間の相互作用から解放されて、各遺伝子の効果がそのまま出現すると考えた。

遺伝的変異が偶然広がったり減少したりするランダムなプロセスを「遺伝的浮動」と呼ぶ。個体数が大きく均一な集団では自然選択による進化は効率的に進まなく、適応は頭打ちになる。一方互いに少し隔離されたたくさんの小集団の場合は、遺伝的浮動の効果が強く働く。遺伝的浮動により血縁の近い個体間の交配が進むと劣性の有害な遺伝子が発現して生存率がが下がり(近交弱勢)、小集団の適応度は下がる。しかし、一方で形質の変化を抑える遺伝子がなくなるので、それまで隠れていた変異が現れ、それに自然選択が働く。そこで有利な性質を持った個体が選ばれ、次にそれが他の集団に移住し交配する。また、他の集団から移住してきた個体とも交配する。この過程で近交弱勢から回復し、自然選択により獲得した有利な性質が集団内に広がり、高いレベルの適応が達成されるのだ。

1932年、ライトは平衡推移理論を発表する。理論の仮定を裏付けるものとしてライトが引用したのはハワイマイマイポリネシアマイマイの研究だった。

どちらが正しいのか?

本書ではこの後もカタツムリをめぐる進化のモデルで繰り返し現れてくる。古生物的な観点からの研究、ゲノム解析からの研究。そして、結論としてはカタツムリの進化は地理的隔絶・遺伝的浮動なのか?自然選択なのか?この結論は9章の「一枚のコイン」に書かれているのだが、実はどちらもだ正しいのだ。カタツムリの種が祖先から受け継いできた生活史の性質が影響して、その結果としてある種では自然選択に見えたり、遺伝的浮動に見えたりするのだ。何とも意外な結論ではあるが、計算機シミュレーションではそのように示された。次のステップは実際のカタツムリで検証することで、ゲノム解析や実際のカタツムリからデータを取ることだという。