川端裕人氏の我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たちを読んだ。この本を著しているのは、サブタイトルになっている「アジアから消えた~」の部分であろう。かってアジアには様々な原人がいたが、その後ホモ・サピエンスがこの地域に増えていき、原人はいなくなった。この本はアジアにいたであろう原人についてまとめている本だ。
猿人、原人、旧人、新人
猿人、原人、旧人、新人というような名称をよく耳にすることがあるが、猿人の前には「初期の猿人」というのもいるようである。これらに相当する英語はなく、国際的な人類学の分類ではないというのだ。これらは一般向けの理解を助けるために作られた言葉で、人類学的分類では、ホミニン(hominin)の中にこれらすべてが含まれていて、更にホモ(homo)の中に、原人、旧人、新人が含まれている。
ジャワ原人はかってはピテカントロプス・エレクトスと呼んでいたと思うのだが、最近ではホモ・エレクトスと呼ばれているのも、分類上はホモに属するからなのであろう。
初期の猿人
700万年から400万年前にアフリカにいて半樹上生活をしていたとされる。400万年前のらミダス猿人は脳の大きさは300㏄、身長は120㎝ぐらいといわれている。
猿人
270万年前にアフリカに頑丈型猿人が登場した。有名なのは非頑丈型猿人のアウストラロピテクスで、脳の大きさは400㏄、身長は110㎝ぐらい。
原人
300万年前から200万年前にアフリカに登場した。200万年前頃の初期にホモ・ハリビスが登場した。脳の大きさは600㏄から800㏄ぐらい。ホモ・ハリビスはアフリカにとどまっていたが、ホモ・エレクトスはアフリカからユーラシア大陸に進出し、東アジアの北京原人、ジャワ原人に至るまで広く分布した。脳のサイズも1400㏄と大きくなり、身長も160㎝から170㎝になった。
ジャワ原人
ドイツのエルンスト・ヘッケルはいずれ見つかるであろう類人猿と人類の間のミッシング・リンクを「ピテカントロプス(ピテクス=サル、アントロプス=ヒトからの造語)と名付けた。自らそれを見つけたいと願ったデュボワは1887年オランダ領東インドに着目した。類人猿がいる熱帯が古代人類の発掘には有望だという推測したからだ。最初、スマトラ島で発掘をしたが、化石は見つからなかった。そこで、ジャワ島に移動し、現地で調査して、化石の出そうな場所を絞り込んだ。そのうちの一つが、トリニールだった。
1891年8月に発掘をはじめ、すぐに大量の哺乳類の化石を見つけた。その中に、後に「ピテカントロプス・エレクトス」と呼ばれることになる霊長類の臼歯があった。10月には頭蓋骨を見つけ、1892年には、直立歩行を示唆する形状の大腿骨を発見し、1894年にこれらの化石について論文を公表した。
デュボワは1895年、オランダに帰国したが、持ち帰った標本が本当にミッシング・リンクなのかが論争の的になり、懐疑的な意見が絶えなかった。やがて、デュボワは心を閉ざし、標本も他人に見せなくなった。その後1920年代後半には北京原人が見つかり、1930年代にはジャワ島の別の場所から大量のジャワ原人の化石が見つかり、デュボワの発見は歴史的事実となったが、デュボワはあまり人と交わらない晩年を送ったという。
ジャワ島からは多数の化石が見つかっているが、生活の跡は見つかっておらず、彼らがどのような生活を送っていたかほとんどわかっていないという。それは、化石が見つかるのは河川層で、そこから化石が見つかるのは、化石が流されてそこにとどまったことを意味している。そのため、化石の発掘場所には生活の跡が見つからないのだ。
フローレス原人
インドネシアのフローレス島で2003年に発見された原人だ。リャン・ブア洞窟の地表下6メートルから発見され、ほぼ全身がそろっていた。見つかった化石は1万8千年前から3万8千年前のもの。身長は1メートル余りでとても小柄だった。フローレンス島は当時孤島で、海を渡らなければ辿り着けなかった。
最初、子供の化石ではないかという説も出たが、歯が生えそろっているから、子供ではないという反証が挙げられた。そして、体が小さくなったのは、島嶼効果のせいだろうというのが、大方の見解だ。島嶼効果とは大型の動物は代謝量が小さく、制成熟も早い、小型の身体を持ったほうが有利なため、矮小化する傾向があり、小型動物は、捕食者が少ないので、隠れるために体を小さくする必要がなく、大型をしやすい傾向をさす。