隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

踏み絵とガリバー《鎖国日本をめぐるオランダとイギリス》

松尾龍之介氏の踏み絵とガリバー《鎖国日本をめぐるオランダとイギリス》を読んだ。あのジョナサン・スイフトの書いたガリバー旅行記ガリバーと踏み絵が関係しているということが一つの本書のテーマになっていて、そこから戦国から江戸時代にかけての日本とオランダ・イギリスの関係史、江戸時代のカソリックに言及している本だ。

踏み絵か絵踏みか

ここ数年のことだが、テレビの歴史番組等を見ていると、「踏む対象は踏み絵だが、踏む行為自体は絵踏みだ」というようなことをよく耳にするようになった。確かに日本語としては、行為のほうは絵踏みといったほうが正しいような気がする。誰がなぜ両方をまとめて踏み絵と呼ぶように仕向けたのか気になる。

ガリバー3度目の航海

ジョナサン・スイフトの書いたガリバー旅行記が4つの章に分かれているのは知っていた。しかし、よく取り上げらえるのは最初の小人の国で、よくて2番目の巨人の国までで、そこまでは記憶していた。だが、そのあとどこに行ったのかは全然記憶になかった。三番目の旅行というか漂流で、ガリバーは日本にやて来ているのだ。

ガリバーはイギリス人だがオランダで医術を学んだということになっていて、当然オランダ語を話せるのだろう。スイフトが最初からガリバーを日本に行かせようと思ってこのような設定にしたのかどうかは知らないが、当時日本と貿易をしていたのはオランダだけなので、何らかの意図をもってこのような設定にしたのだろうとは思う。ガリバーは三度目の旅行で日本に来ることになるのだが、まずインドのフォート・セント・ジョージに到着した。ここはイギリスの東インド会社の拠点になっていた。その後トンキン(現在のベトナムハノイ)に上陸した。そこで、船長と別れて別な船で出帆して、難破してしまう。そして、海賊船に襲われ、小さな船に乗せられて、流されてラピュタにたどり着いた。ラピュタ→ラグナグ→日本という経路をたどり、長崎からヨーロッパへ帰ったのだ。日本に上陸したときに皇帝に以下のようにお願いするのだ。

To this I added another petition, “that for the sake of my patron the king of Luggnagg, his majesty would condescend to excuse my performing the ceremony imposed on my countrymen, of trampling upon the crucifix: because I had been thrown into his kingdom by my misfortunes, without any intention of trading.”

The Project Gutenberg eBook, Gulliver's Travels, by Jonathan Swift

trampling upon the crucifixがいわゆる絵踏みに相当する行為で、ガリバーは皇帝に「十字架を踏むことを勘弁してほしい」とお願いしているのだ。この時ガリバーは本当はイギリス人だが、オランダ人商人であると偽って、日本に上陸している。

絵踏みというと日本のキリシタンに対して行われていたというように理解していたのだが、どうやら外国人に対しても行っていたらしく、廃止されたのは幕末の1857年の正月からだったという。

長崎の絵踏み

絵踏みというと、キリスト教を捨てたことを示すために行われていたような記憶があったのだが、実はそんな単純なものではなく、 長崎では毎年行事のように行われていたということだ。毎年正月の三日から九日までの間例外なく、旅人も含めてすべての人が行わなければならなかった。長崎の町内の絵踏みが終わると、二月に代官所支配の3ヶ村(長崎村、浦上村、淵村)、代官所預かりの7ヶ村(日見、古賀、茂木、川原、樺島、野母、長浜)の村民も長崎近郊で絵踏みが行われた。そのた、豊後、日向、小倉、熊本でも行われた。