隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

一九八四年[新訳版]

ジョージ・オーウェルの一九八四年 (原題 NINETEEN EIGHTY-FOUR)を読んだ。ディストピア小説の古典中の古典だが、今まで読んだことがなかった。今回読んだのは2009年に出版された新訳版だ。1948年に1984年の未来を描いた小説だが、オーウェル自身はこれが1984年の世界だと思って書いたわけではないだろう。48をひっくり返して84にしただけなのだから、未来を描こうとした明確な意思はなかったと思う。

この世界では、3つの超大国が世界を支配していた。それらはオセアニ、ユーラシア、イーストアジアだ。アメリカ合衆国に端を発するオセアニはイギリスも併合し、南北中央アメリカ、アフリカの南部、オーストラリアを領土としている。ユーラシアはロシアが起源で、ヨーロッパとアジアの北部を支配している。イーストアジアは3つの中で一番小さな国であるが、中国、東南アジア、日本、モンゴル、チベットを領土としている。これらの3つの超大国は敵と味方を変えながら25年間にわたって戦争状態を続けているのだが、この時代には戦争の意味合いが変わっていた。相手を完膚なきまでに叩きのめすことはもはや不可能で、戦略的に重要な地域の所有権をめぐる争いに変わっていた。その地域には重要な資源があり、労働力があった。しかし、戦争の第一目的は、全般的な生活水準を上げず、機械による製造品を消費しつくすことなのだ。なぜなら、富の全面的な増加は階級社会を破壊する恐れがあるためだ。戦争とは支配階級の平和のために存在しているのだ。

物語はオセアニアのロンドンに住むウィンストン・スミスに起こった出来事が淡々と語られていく。ウィンストンは報道・娯楽・芸術・教育を司る真理省の記録局に勤める役人で、彼の仕事は党の発表と齟齬がないようにあらゆる記録史料を編集する作業をしている。この時代は改変された記録しか残っておらず、そのために史実としての歴史というものがなくなっているのだ。ある日彼は虚構局で小説執筆機の運転操作にかかわる仕事をしているジュリアという女性と出会い、密会を重ね、愛し合うようになる。社会生活はあらゆる統制下にあり、ウィンストンには別居中の妻がおり、ジュリアとの恋愛は明確な法律がないものの違法なことだ。更に、彼は現体制に疑問も持ち、改変される前の史実の記憶もとどめていて、歴史的な事実と党の発表との間の矛盾にも悩んでいた。彼は、被支配者階級であるプロールこそが現状を打倒するとなぜか信じていて、希望を抱いているのだ。

これはディストピア小説なので、物語の最後には何らの希望のかけらもない。ウィンストンの党に対する疑念も、反党的な思想も最終的には打ち砕かれて終わってしまう。徹底的に救いの無い物語だ。

この小説で一番印象に残った言葉が「二重思考」だ。「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」と説明されているが、別なところでは、「故意に嘘をつきながら、しかしその嘘を心から信じていること、都合が悪くなった事実は全て忘れること、その後で、それが再び必要となった場合には、必要な間だけ、忘却の中から呼び戻すこと……」と書かれていて、私はここ数年このようなことがこの国の中枢で行われていることをたびたび目にして、オーウェルは21世紀の日本を予感していたのかという妄想に駆られている。