隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

明暦の大火: 「都市改造」という神話

岩本馨氏の明暦の大火: 「都市改造」という神話を読んだ。

明暦の大火は明暦三年正月十八日から二十日にかけて発生した。これを西暦に変換すると1657年3月2から4日となり、江戸幕府が開けてから約半世紀後の早春に起きた火災であることがわかる。この大火災の後幕府は、「江戸城内吹上にあった御三家を御三家邸をはじめとする武家屋敷を城外に出し、江戸城周辺の武家屋敷の大規模移動を行い、外郭内の寺院を外濠外あるいは新開地に移動させ、市内には広小路・火除明地・火除け堤を設けて火災の延焼防止を図った」というような説明を見ることが多いが、本書は果たしてこれはどれぐらい正しいのかという事を検証した研究だ。

著者は本研究・検証のために複数の地図を参照しており、大火前の地図は明暦大火前江戸大絵図、大火後は明暦大絵図や新板江戸外絵図などを用いている。ただし、絵図は実測ではないので歪みが大きいようだ。また、幕府の公式記録である江戸幕府日記を一次史料として多用している。

武家屋敷

御三家は大火前から外側に大規模な屋敷を求める動きがあったようで、それは吹上にあった屋敷が手狭だったからだ。水戸家は寛永六(1629)年に小石川に下屋敷7669歩(坪)を拝領し、九月二十八日に竣工すると徳川頼房は居を移している。紀伊家も寛永九(1632)年に赤坂に中屋敷を拝領しており、承応二(1653)年に添え地を拝領している。当時の坪数は不明だが、その後の拡張工事から逆算すると、承応二年当時で90000坪弱と推測される。徳川頼宜は慶安三(1650)年に中屋敷に転居している。尾張家は明暦元(1655)年から新たな屋敷の拝領を希望しており、翌年54914坪の屋敷地を市ヶ谷に確保している。

また、大名の屋敷に関しては西丸下、大手前から代官町、吹上にかけてのごく限られた範囲については移動がみられる。一方、大名屋敷の集中している大名小路と外桜田は大火で壊滅したが、大半の大名が旧地に屋敷を立てている。幕臣屋敷があった元鷹匠町・駿河台一帯は大火で焼失したが、大火後5年で拝領者が確認可能の422筆のうち18%が変わっているが、一年あたり4%に満たないので、大きく変わったようには見えない。

火除け地

火除け地に関しては大火後14カ所設置されているが、このうち長崎広小路と中橋広小路は明暦二年の火事を契機として設定されたようだ。その後17世紀の末・18世紀に向けて、新設される火除け地がある一方廃止される火除け地も出てくる。元禄十三(1700)年には48カ所あった火除け地は正徳五(1715)年には22カ所になってしまった。これは江戸の人口が増え続けてことが原因のようである。また、その後の火災でもしばしば火除け地は突破されており、火除け地の効果は延焼を食い止めるという事より、延焼の広がる速度を遅くするというのが主眼のようだ。

吉原移転

火除け地とも関連があるが、元吉原は日本橋北地域にあったが、幕府からは明暦二年に浅草への移転が命じられている。この移転準備中に明暦の大火に襲われたため、移転は明暦三年六月十五・十六日までずれた。

寺社

大火後寺社は浅草や駒込への移転が行われたように見えるが、自社の移転は1650年~1659年の間に107カ所移転しており、明暦三年には49カ所、大火後は73か所であった。しかし、寺社の移転は1600年以前から行われており、1630年~1639年は143か所、1640年~1649年には86か所と順次行われていたことがわかる。特に1630年代の移転は家光による江戸城整備と関連している。