隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

江戸の宇宙論

池内了氏の江戸の宇宙論を読んだ。本書は志筑忠雄(筑の字の凡が卂になっているのが正しい字体)と山片蟠桃についての評伝である。山片蟠桃は名前になんとなく記憶があったが、志筑忠雄には全然記憶がなかった。しかし、志筑忠雄は鎖国論を翻訳した元オランダ通詞で、この鎖国論という本の名前から鎖国という言葉が生まれたのは有名な話だろう。この二人とも18世紀末から19世紀前半の人たちだ。

志筑忠雄

志筑忠雄は長崎の資産家中野家に生まれたが、オランダ通詞の志筑家の養子となった。17歳で養父の後を継いで稽古通詞になるが、翌年早々に病気であることを理由に通詞職を辞し、以降蘭書の翻訳・研究に没頭したという経歴の人物だ。志筑が残した著作物は、オランダ語の研究所が21種、世界地理・歴史関係書が6種、天文学・物理学・数学関係の研究書が21種と分類されている。生前に出版されたものはなく、彼の仕事はもっぱら写本によって蘭学仲間に知られていた。特筆すべきことは、「忠雄曰く」あるいは「忠雄案ずるに」と注釈して、自分の考えや意見をときには本分以上の長さで付け加え、読者の理解の道筋をつけている事だろう。

宇宙に関する翻訳書では、オックスフォード大学教授のジョン・ケールが書いたニュートン力学の教科書「天文学・物理学入門」のオランダ語訳を更に日本語に翻訳した「歴象新書」が重要で、引力、遠心力、求心力、重力、分子、地動説、天動説の訳語を生み出した。地動説は英語ではheliocentric modelであり、天動説はgeocentric modelである。オランダ語もほぼ同じような言葉になっている。これと比べると、日本語はどちらが動いているのかという観点で言葉を選んでいて、発想の違いが興味深い。

山片蟠桃

山片蟠桃は1748年播磨国印南郡神爪村(現在の兵庫県高砂市神爪)に長谷川小兵衛の次男として生まれた。実家はもともと酒屋を経営していたようであるが、大坂の升屋とのつながりも深いようで、長谷川家からは何人も升屋に奉公している。蟠桃も13歳の時に大坂の堂島にある升屋に丁稚奉公のために住みこみ始めた。蟠桃が丁稚奉公に入った1760年の升屋の当主は重賢だった。重賢は1769年に家督を婿養子の重喜に譲った。ところが、その婿養子が間もなくなくなり、二女のなさに婿養子平治郎を迎えた。同年息子の平蔵が生まれた。重賢は死の年に遺言を残し、財産の6割は平蔵に譲るが、平蔵が幼少であるため、平次郎が後を継ぎ、平蔵が20歳になったら、彼に家督を譲るべしとした。しかし、襲名のわずか一年後、「身持ち不埒」という理由で、1771年わずか8歳の平蔵に升屋を譲ることになった。この間のごたごたを捌いたのが当時まだ20前後の蟠桃だった。当時の升屋は米の仲買をしていたが、そこから大名賀しに移行していったのは蟠桃の手腕のようだ。そのことに関してはここでは割愛する。

蟠桃1802年頃から「宰我の償い」という書物を書き始めた。それを後に「夢の代」と名前を改め、完成したのは1820年である。これは蟠桃が見聞きし、学んだことを書き留めたものなのだが、内容は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書、異端、無鬼上、無鬼下、雑論からなっている。

蟠桃麻田剛立から天文学を教授され、「ナクトケーケル」という天文観測器で実際に天を観測した。そして、太陽が惑星活動の根源であること、恒星の姿は望遠鏡を使っても変わらないことから、非常に遠くにあると理解した。また、自転軸が25400年で一周する(歳差運動。実際には25800年)こと、そのために北極星がずれていくことも認識していた。また、蟠桃は地動説に基づく太陽系も理解しており、水金地火木土の惑星があることも知っていた。蟠桃は志筑忠雄の暦象新書も入手して、研究しており、そこから得た知識を夢の代で披露されている。

本書の中では残念ながら彼らがなぜ宇宙や物理学に興味を持ったのかが書かれていないので、その点が不親切だと思った。