隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン

アナニヨ・バッタチャリヤの未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン (原題 THE MAN FROM THE FUTURE The Visionary Life of John von Neumann)を読んだ。

フォン・ノイマンと言われて真っ先に思い出すのはノイマン型コンピュータで、未だに我々はこのアーキテクチャーの恩恵を受けている。唯一これに置き換わる可能性のあるのは量子コンピュータで、これ以外のものは提案されたが結局は生き残っていない。ニューラルネットに基づく計算機も生き残っているが、これも単独では存在していないので、置き換えられることはないだろう。これ以外にフォン・ノイマンがかかわって来たものと言われて思い出すのは、原爆開発であるマンハッタン計画ゲーム理論、自己増殖オートマトンだろう。だが、これらに関してはあまり詳しく知らないし、これ以外に、ヨーロッパ時代に量子力学にもかかわっていたことは知らなかった。

本書はジョン・フォン・ノイマンの評伝ではあるのだが、彼が研究・提唱したことがどのような背景でこの世に出てきたのか、どのような人たちがかかわっていたのか、そしてフォン・ノイマンの研究が後の世にどのような影響を与えたのかについても言及している。そのため、しばしば、文章の中からフォン・ノイマンが消えてしまい、彼とは直接関係のない所で起こったことについて、延々と説明が加えられることがある。そういうことが急に起こるので、この本はちょっと読みにくい側面があると思う。それと、登場する人物が多岐にわたり、多数いるので、誰が誰だかわからなくなることもあった。巻末には9ページにわたって人名索引も収録されている。

生い立ち

ノイマン・ヤーノシュ・ラヨシュがハンガリーでの名前であり、ハンガリーでは姓が先に来るようだ。彼は1903年12月28日にブダペストで生まれた。一家は裕福で、母親の父が金物屋を営むユダヤ系の一家だった。父親のマックスはヨーロッパに戦火が近づいているのを感じていて、息子たちには最悪の事態に備えるような教育を受けさせた。マックスが考えた重要なものは外国語だった。そのせいかフォン・ノイマンはフランス語、イタリア語、英語を子供のころから学んでいた。彼は数字の暗記の名人だったが、楽器やスポーツは苦手だったようだ。彼の数学の才能はギムナジウム(中等学校)で見いだされた。しかし父親が数学の専攻を認めなかったので、彼は大学の専攻の選択では、スイス連邦工科大学で化学工学を学び、ブダペスト大学の数学科には博士課程の院生として籍を置いた。

量子力学

なぜ、フォン・ノイマン量子力学に興味を抱いたかについては書かれていない。ただ、1920年代の量子力学の論争一つである、どのように量子の振る舞いを記述するかということに(つまり行列式波動関数に関して)フォン・ノイマンは興味を持ったようだ。彼はこの二つは本質的に同じものであることを証明した。今まで数冊の量子力学の本を読んだが、このことに言及した本はなかったと記憶している。

高等研究所時代

1930年にフォン・ノイマンアメリカにわたりプリンストン大学で職を得た。その3年後に高等研究所に移った。高等研究所に勤務し始めたころのフォン・ノイマン陸軍省武器科の少佐オズワルド・ウェブレンに誘われ弾道研究所(RBL)に顧問として参画し、そこで、爆弾が爆発して広がる衝撃波の解析に従事したようだ。爆薬が爆発する際にその形状が爆発の力と方向に及ぼす具体的な影響を検討した。その後1942年には海軍に入隊した。この辺りの研究から彼はマンハッタン計画に関わるようになったようだ。戦後トルーマン大統領から功労章を授与されたが、その理由は「爆薬の効果的使用」に関する研究による貢献で、具体的には大型爆弾の爆発地点が地上の目標ではなく、上空にある方が格段に大きな被害がより広範囲に及ぶことを明らかにしたためだ。更に、原爆の開発においては爆縮型の原爆であるファットマンの開発に関わっていたようで、どのように核融合反応を誘発させるかというのが研究課題だった。このような開発において爆発のモデル化に必要となる計算量が膨大だったので、計算機の開発が急務となり、EDVACとして結実することになる。

全く知らなかったのが、フォン・ノイマンの2番目の妻が改造されたENIACプログラマーとして従事していて、しかもモンテカルロ法が使われていたという事実だ。モンテカルロ法がこんな昔から、しかもそのアイディアにフォン・ノイマンが関係していたとは知らなかった。

ゲーム理論

ゲーム理論と経済行動」はオスカー・モルゲンシュテルンとの共著で1944年に出版された。つまり、この研究も原爆・コンピュータと同時期に行われていたということだ。1944年に出版された初版はすぐさま売り切れて、多くの賛辞が寄せられたが、経済学者にはすぐ受け入れられなかった。同書は数学的すぎて経済学者には受け入れられなかったというのが著者の意見だ。更にモルゲンシュテンルンが横柄だったのが災いたとも書かれている。それと未解決事項が多すぎてすぐさま経済問題に適応できなかったのも、受け入れられなかった理由の一つだ。しかしその後、ジョン・ナッシュ、ロイド・シャープリー、ディヴィッド・ゲイルなどにより研究が勧められ、経済学にとどまらない広範な社会学で発展していく。さらに、ゲーム理論は動物行動学、進化生物学とへと適用範囲を広げていった。