隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折

春日太一氏の鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折を読んだ。橋本忍という脚本家の名前は知っていたが、実は知っていたのは名前といくつかの黒澤作品で脚本を書いていたということだけで、これほど日本映画に深くかかわった人だということは全く知らなかった。全く知らないことが次から次と出てきて、非常に面白かった。1950年代から1980年代までの日本の映画史を語る上では外すことの出来ない人物だということが、この本を読んで初めてわかった。私がリアルタイムで認識していた映画は1970年代辺りの頃からだが、日本沈没砂の器八甲田山八つ墓村橋本忍が脚本を手掛けていたということは本書を読むまで全然気づいていなかった。

橋本忍が脚本家になったきっかけも興味深い。太平洋戦争に徴兵されたが、結核が見つかり、療養所に行くことになる。たまたま同室者が持っていた映画雑誌にシナリオが載っていて、それを読んで自分でも書けるような気がした。その同室者に日本一のシナリオ作家は誰かと問うと、伊丹万作だという。伊丹万作も当時結核を患っていた。橋本の結核はかなり重い部類の物で、いつまで生きられるかよくわからないようなことを医師に告げられたようだ。その時はシナリオの執筆はしなかったが、2年たっても死なず、結婚し長男が生まれ、軍需徴用で海軍管理の工場勤務もし始める。その辺りから本格的にシナリオの執筆をはじめ、出来上がったものを伊丹万作に送ったようだ。そして伊丹万作が丁寧に返信してくれたというのだ。そこから伊丹の弟子のような形になり、習作として書いた芥川の藪の中が後年黒澤の目に留まり、羅生門の脚本の元となった。その時まだ橋本はサラリーマンとして工場勤めをしていた。

橋本は単なる脚本家としてではなく、プロデューサー的に映画製作に携わることも多く、やがて橋本プロダクションを設立し、砂の器八甲田山を製作する。橋本は根っからのギャンブラーで、興行はやってみなければわからない側面を認めつつも、どうやったら成功に導けるかを綿密に分析して、ノートに記録していたのは興味深い。その分析が見事に当たり、また創価学会との協力関係も手伝って、この2作はヒットし、次の八つ墓村もヒットする。しかし、ここがピークだったようで、その後の映画はよくわからない映画になってしまったようだ。1986年の伊藤麻衣子主演の「愛の陽炎」などは全然記憶になかった。