隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

armbianのインストールで盛大にはまる

2018年の10月30日にNanoPi NEO2にarmbianをインストールし始めたのだが、初日から盛大にはまってしまった。

書き込み用のイメージは月曜日にダウンロードしていて、「Armbian_5.65_Nanopineo2_Debian_stretch_next_4.14.78.img」がDebianの最新なので、これをSDカードに書き込んだ。そのSDカードをスロットに差し込んで、電源を入れると、DHCPIPアドレスを取得したようなので、そのIPアドレスsshで接続すると、root/1234でログインできた。で、早速rootのパスワードの変更を促されるのだが、そこで新しいパスワードを入れると、接続が切られてしまう。何回か繰り返して試したが、毎回同じ動作なので、出だしの所ではまってしまったことになる。別なSDカードがあったので、それを試したが、全く同じ状態だ。同様の問題がないかと検索すると、以下のページを見つけた。

Initial login (via SSH) can't set password - SD card and PSU issues - Armbian Community Forums

どうやらSDカードがダメなのではと想像しているのだが、このSDカードはブートでしか使わない予定なので、新しいカードを買うのもためらわれる。それで何か回避策はないかと、SDカードの中身をLinuxマシンにつないで見るみると、/rootには以下に.not_logged_in_yetという名前のファイルがある。いかにもそれっぽい名前なので、とりあえずこれをリネームして、x_not_logged_in_yetにして、立ち上げてみた。そうすると、パスワードの変更の所で接続が切れなくなった。理由は全く不明だ。

次にSDカードのファイルシステムをHDDにコピーする必要があるのだが、armbianではnand-sata-installというコマンドで、この作業を実行していくれるということがarmbianのドキュメントのページに書いてあるので、実行してみた。だが、ファイルシステムのコピーの所でこれまた接続が切れてしまう。これも何回か試してみたが同じなので、マニュアルでファイルシステムのコピーをした。

最近のu-bootは非常に柔軟にできており、/boot/armbianEnv.txtにrootdev=というパラメータがあり、ここにUUID=XXXXXXXX-YYYY-ZZZZ-WWW-AAAAAAAAAというように、rootデバイスになるディスクのパーティションのUUIDを書き込んでおくと、そこから起動してくれるようだ。そこで、HDDの第一パーティションのUUIDを書き込んで、リブートすると、希望通り、HDDからブートしてきた。ここまで、問題があったものの何とか設定できた。この後色々設定を変えたり、ffmpegコンパイルしてみたり、5~6時間ぐらい動作させたが、予期せぬ接続断やリブートはなかったので、今日の作業はここまでにしようと思い、最後にリブートして、まだちゃんと立ち上がって、ログインできるかどうか確認しようと思った。いざ実行したみると、HDDから立ち上がってこない。pingにも応答しない。

しかたがないので、SDカードにrootdevを元に戻して、立ち上げると、これは大丈夫。起動してきて、ログインできる。そこで、rootdevをHDDに変えると、ログインできない。ファイルシステムは壊れていないだろうという、希望的観測のもと、/etc/fstabが悪いのではないかと推測して、これをいろいろ修正しながら、試していると、nodiratimeと書くところを、一行だけnodirtimeになっている行があり、それが原因で、立ち上がらなかったようだ。でも、指定ミスをしていたパーティションは作業用のディレクトリで、rootdevのパーティションじゃないのだが、一つでもおかしいと、そこでブートプロセスが止まるようだ。初めて知った。このリカバリー作業に1時間半も費やしてしまった。

2018/11/6追記
ようやくサーバー群をインストールし、設定も終えて、だいたい環境設定も完了に近づきてきたのだが、カーネルがクラッシュし、再起動されることが頻発するようになった。最初に気付いたのはaptitude実行時に処理が止まった時で、

Unable to handle kernel paging request at virtual address 20be0f0020be2f

と出ていて、更にこの下に、

Modules linked in: zram sun8i_codec_analog snd_soc_core snd_pcm_dmaengine snd_pcm sun4i_gpadc_iio snd_timer iio_hwmon industrialio usb_f_acm u_serial g_serial libcomposite uas sunxi usb_hdrc

とあったので、zramが何か悪さをしているのかと思って、zramを無効にした。しかし、使っているとやっぱり再起動するので、さらにpaging関係の設定を見ていると、/etc/sysctl.confにvm.swappiness=100となっており、そんなに責めなくてもと思い、小さな値にしたが効果なし。で、よーく見ると、実メモリは1GBなので、スワップに1GB割り当てていたつもりが、907MBしか割り当てられておらず、「これか?」と思い、割り当てサイズを大きくしてみた。一見安定したように見えたのだが、やはり数時間すると再起動してしまう。armbianではなく、friendlyarm提供のlinuxを試してみるか。

2018/11/8追記
http://wiki.friendlyarm.com/wiki/index.php/NanoPi_NEO2を見ると、ubuntuベースのlinux (nanopi-neo2_sd_friendlycore-xenial_4.14_arm64_20181011.img)があるので、これを試してみた。しかしこれもサーバー類を設定していくとやはり再起動してしまう。一つ気づいたのは、何やら変なパケットを受信した後に再起動しているように見えることだ。例えば、こんなパケット。

[ 1059.493645] dwmac-sun8i 1c30000.ethernet eth0: len 2032 larger than size (1536)
[ 1059.677500] dwmac-sun8i 1c30000.ethernet eth0: len 1677 larger than size (1536)
[ 1059.762794] dwmac-sun8i 1c30000.ethernet eth0: len 1665 larger than size (1536)
[ 5303.596996] dwmac-sun8i 1c30000.ethernet eth0: len 1667 larger than size (1536)

それともう一つ気づいたのは、100%の確信はないが、tinyproxyを動作させると再起動するようになるということだ。現在tinyproxyを止めて様子を見ている状態だったが、やはり再起動してしまった。なので、関係ないのだろう。どうしたものか。

秀吉の接待

二木謙一氏の秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解くを読んだ。この本を読む前にサブタイトルに「毛利輝元上洛日記を読み解く」に気付かず、秀吉側の視点に立った本だと思っていたのだが、実際はこのサブタイトルの通りで、毛利輝元側の視点に立った文書をもとに天正十六(1588)年に毛利輝元が京都の聚楽第に上洛し、秀吉に臣従の礼を取った時の毛利輝元の京都への道中記・京都滞在記となっている。

毛利輝元の家臣の平佐就言が七月七日安芸の吉田郡山城を出発し、京都に約一月半滞在し、九月十九日に帰城するまでの動静を記録した日記が残っている。しかし、その日記の原本は不明で、「天正記」あるいは「天正朝聘日記」などと題する写本が伝えられている。

輝元が京都に到着すると関白の宿を提供し、関白並びに秀長・秀次から、それぞれ出迎えの使者が遣わされて大阪まで同道した。そして、大坂では黒田孝高が関白の下命により出迎え、その後も輝元の京都・大阪滞在中の案内・世話役を務めている。上洛した輝元は、まず聚楽第に出仕し、臣従の礼を取る。それに対して秀吉は官位の昇進を取り計らい、従四位下参議に推挙し、ともに参内し、朝廷へのとりなしを行った。その夜戌の刻(十時)に輝元は秀長艇を訪ねている。それは一刻も早く参議に任じられたことを秀長に報告したかったようなのだが、秀長邸の門は閉じられており、家臣に伝言を残して帰ることになる。

輝元への秀吉の心遣いは念が入っていて、聚楽第の茶屋に招待したり、屋敷内をくまなく見物させ、囲碁見物や初鮭の到来・月見などと言っては輝元を招いている。また、秀長邸・秀次邸への関白の御成りなども設けられた。御成りでの関白への進上の品々や酒食・演能の費用などは秀長・秀次の負担によるところが多いだろうが、秀長邸・秀次邸御成りの御奏者・御配膳役・御簾約等は同一人物であり、その他御屋敷奉行・御膳奉行も豊臣政権の奉行人が勤めている。要するに秀長邸・秀次邸の御成りは、聚楽第内の外交の一形態であり、秀長と秀次の屋敷はその接待所であったのであろう。在京中の輝元は毎日のように諸大名邸での茶の湯や振る舞いの赴くことになり、これも関白の御声がかりによるものであったという。

また、秀長も輝元の安芸への帰路に大和郡山まで同道し、大和郡山城に滞在させ、輝元一行をもてなした。更に、輝元が大阪滞在する際は、秀吉も淀川を下って大坂城に入り、輝元も大坂城に出仕している。黒田孝高は大阪滞在中の輝元に宿も提供して、もてなしている。

本書を読んでいておやっと思ったのは、聖護院(聖護院道澄)が秀吉と輝元の対面の場にたびたび同席しており、どうやら秀吉から重く信頼されていたようで、その存在すら知らなかった。