隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

秀吉の接待

二木謙一氏の秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解くを読んだ。この本を読む前にサブタイトルに「毛利輝元上洛日記を読み解く」に気付かず、秀吉側の視点に立った本だと思っていたのだが、実際はこのサブタイトルの通りで、毛利輝元側の視点に立った文書をもとに天正十六(1588)年に毛利輝元が京都の聚楽第に上洛し、秀吉に臣従の礼を取った時の毛利輝元の京都への道中記・京都滞在記となっている。

毛利輝元の家臣の平佐就言が七月七日安芸の吉田郡山城を出発し、京都に約一月半滞在し、九月十九日に帰城するまでの動静を記録した日記が残っている。しかし、その日記の原本は不明で、「天正記」あるいは「天正朝聘日記」などと題する写本が伝えられている。

輝元が京都に到着すると関白の宿を提供し、関白並びに秀長・秀次から、それぞれ出迎えの使者が遣わされて大阪まで同道した。そして、大坂では黒田孝高が関白の下命により出迎え、その後も輝元の京都・大阪滞在中の案内・世話役を務めている。上洛した輝元は、まず聚楽第に出仕し、臣従の礼を取る。それに対して秀吉は官位の昇進を取り計らい、従四位下参議に推挙し、ともに参内し、朝廷へのとりなしを行った。その夜戌の刻(十時)に輝元は秀長艇を訪ねている。それは一刻も早く参議に任じられたことを秀長に報告したかったようなのだが、秀長邸の門は閉じられており、家臣に伝言を残して帰ることになる。

輝元への秀吉の心遣いは念が入っていて、聚楽第の茶屋に招待したり、屋敷内をくまなく見物させ、囲碁見物や初鮭の到来・月見などと言っては輝元を招いている。また、秀長邸・秀次邸への関白の御成りなども設けられた。御成りでの関白への進上の品々や酒食・演能の費用などは秀長・秀次の負担によるところが多いだろうが、秀長邸・秀次邸御成りの御奏者・御配膳役・御簾約等は同一人物であり、その他御屋敷奉行・御膳奉行も豊臣政権の奉行人が勤めている。要するに秀長邸・秀次邸の御成りは、聚楽第内の外交の一形態であり、秀長と秀次の屋敷はその接待所であったのであろう。在京中の輝元は毎日のように諸大名邸での茶の湯や振る舞いの赴くことになり、これも関白の御声がかりによるものであったという。

また、秀長も輝元の安芸への帰路に大和郡山まで同道し、大和郡山城に滞在させ、輝元一行をもてなした。更に、輝元が大阪滞在する際は、秀吉も淀川を下って大坂城に入り、輝元も大坂城に出仕している。黒田孝高は大阪滞在中の輝元に宿も提供して、もてなしている。

本書を読んでいておやっと思ったのは、聖護院(聖護院道澄)が秀吉と輝元の対面の場にたびたび同席しており、どうやら秀吉から重く信頼されていたようで、その存在すら知らなかった。