隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

“身売り”の日本史―人身売買から年季奉公へ

下重清氏の “身売り”の日本史―人身売買から年季奉公へを読んだ。

サブタイトルにあるように日本における人身売買に関する研究だ。

人身売買と法律

売買される対象は古くは奴婢であったり、戦闘による人取りあったりしたようだ。この場合の人取りは戦闘員だけではなく、非戦闘員である村人も対象とされていた。8~9世紀の律令時代には、奴婢は売買しても刑罰の対象とはなっていなかったが、良民の売買は原則として禁止されていた。また、拉致誘拐して売る行為である「略売」も禁止されており、発覚した場合は島流しになった。奴婢になるのは犯罪を犯した場合か、戦闘の敗者として捕虜になるか、非合法ではあるが税の未納の代わりに借金のかたとして良民が売られる場合、奴婢の子として生まれた場合があった。平安末期には「人売り買い禁止令」が出されたが、これは「他人の奴婢を匂引し、要人に売る行為」を禁止したのであって、人の売買自体は禁止されなかったという。

その後仁治元(1240)年、全国の地頭に通知した厳守すべき職務に用の一つとして「人倫売買」があり、「人匂引ならびに売買の仲人の輩」の逮捕が挙げられている。この時点で、拉致誘拐犯と並んで、仲介業者も処罰の対象とされた。

飢餓民衆の生き残り方法

飢餓が発生した際に飢え苦しむ民衆が生き延びるために取ったいくつかの方策がある。

  1. 食い扶持減らしのために、第三者のもとに子供を養子に出す。
  2. 子供だけではなく、一家全員で親類や縁者の家に転がり込む。この多くの場合は転がり込んだ一家は隷属下におかれることになる。
  3. 経済的に余裕のある富裕者や地頭などから米殻・金銭を借金する。借金の担保に、妻子を人質にせざるを得くなり、借用証文に担保として名前が入れられるか、返済できるまで債権者のもとに人身を手放す場合があった。

秀吉の「人売り買い」禁止令

天正十八(1590)年のいわゆる小田原合戦の最中の四月二十七日に上杉景勝に出された朱印状に、

しかるところ、人を商売仕り候由候。言語道断是非無き次第候。所詮買い置きたる輩、早々本在所へ返し付くべく候。自今以後において、堅く停止せらるる間、下々へ厳重に申し付くべき候也。

この朱印状を端緒に、秀吉により国内での人の売り買い自体が禁止されることになり、同様の内容の定め書きが諸大名に通達された。

戦争状態が終結すると、全国規模で武家奉公人の需要が減少し、雑兵である「奉公人」が牢人化し始めた。十二月五日長塚正家・増田長盛らの信長奉行衆連名の法度が北近江の蔵入地代官大田又助らに出された。それは牢人対策で、「牢人が蔵入地や給地に滞留しているならば地下から追い払え」というのがその主旨だ。また、天正十九(1591)年八月二十一日付の三カ条の定書で改めて、武士が百姓・町人になることの禁止、百姓の転業、武士が無断で奉公先を変えることの禁止が発せられた。特に奉公先を変える場合は暇乞いの証拠を持っていることと、請け人(保証人)を立てることが示された。そして、この請け人を立てるということは武家奉公人だけではなく、江戸時代を通じて一般の奉公にも適応されていくことになる。

興味深いのは江戸時代にも牢人対策は繋がっていくのだが、上級武士であった牢人は宿切手を発行してもらうと、洛中に居住できるような制度があったというのだ。この宿切手の制度は江戸幕府にも継承されることになる。

江戸幕府の人売り買い禁止

元和二(1616)年十月、幕府は「人売り買い」禁止令を定め、九カ条からなる定書は江戸・大坂・京都に高札として掲げられた。定書の文章が「売り買い濫りの輩は」となっていることから、筆者はこれは「人売り買い」であり、売買業者を差していると指摘している。また、この中の一つとして、「主なき宿借りの事。請け人の手形を町奉行所へあげ、両人の裏判をもって宿を借りるべき事」とされ、秀吉の宿切手の制度がここに継承されている。

秀吉により一旦は全ての人身売買が禁止されたが、徳川幕府により、再び時計の針が戻ったことになり、「人売り買い」である売買業者のみが禁止されることとなった。

奉公人契約

秀吉が導入し、江戸幕府により継承された奉公人の身元を保証する請け人は、江戸時代を通じて一般の労働契約にも適応されていくようになる。そして生まれるのが「妾奉公」という言葉であり、愛人契約に際しても奉公人請け状を交わして契約することになる。請け状には賃金や年限なども事前に取り決められ、さながら通常の雇用契約のように見えるようにつくられるのだ。遊女奉公、飯盛り下女奉公などの奉公も同様にみられるようになる。

十七世紀末までには、労働力の需給も、人身売買によるものから年季奉公契約に移行していったようだ。特に男性は売ろうと思っても、買ってくれる先がない状況になったようだが、その理由については本書ではあまり明確に述べられていない。しかし、女性に関しては、妻娘の身売りが継続し、この頃には人身売買と言えば女性が対象になったようだ。

なぜ身売りが亡くならなかったのか

遊女や飯盛り女が幕府により公認・黙認された理由に関して、大都市における男女比の不均衡が挙げられる場合があるが、筆者はこれは理由にならないと切り捨てる。つまり、極端に女性が少ないからと言って、一部の女性が体を売らなければならない理由にはならないというのだ。これは至極まっとうな指摘だと思う。筆者は売る側に理由があると指摘する。百姓の年貢未進であるとか、様々な債務を「家」内で解決するために身売りは必要とされたのだと論じている。これは幕藩体制社会とか領主経済を根底の所で支える仕組みの一つであり、そのために身売りを温存する必要があった。更に、年季奉公契約とすることで、身売りに雇用労働としての法的な正統性を与え、「家」のための「孝」という倫理でもって、カモフラージュしたと述べている。

明治政府と身売り

明治五(1872)年十月二日太政官布告二九五号、いわゆる芸娼妓解放令が発布された。

一、人身売買致し、終身または年季を限り、その主人の存意に任せ、虐使いたし候は、人倫に背き、あるまじき事につき、古来制禁の処、種々の名目をもって奉公住まい致させ、その実売買同様の所業に至り、もっての外の事につき、自今厳禁たるべき事。

一、娼妓、芸妓等年季奉公人、一切解放いたすべし。右についてその貸借訴訟、そうじて取り上げず候事。

この布告において、遊女は解放されることになるのだが、解放されても生活の方法がないものが多数であり、売春自体は禁止されているわけでもなく、旧来通り続けられることになる。それは娼妓、芸妓、遊郭は許認可・管理監督が府県に任され、許可され場所での営業が可能な状況が続くことになる。名目上は自由意思による営業という建前になっているが、近代に入ってからも遊郭は増え続け、明治十四(1881)年の段階で、全国に五百八十六か所に上り、そのうち40パーセントは明治維新後に許可された地区である。

日本で売春自体が法律で禁止されるのは、1956年五月二日の第二十四回国会で、同二十四日に成立した売春防止法であった。