隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか

早島大祐氏の徳政令 なぜ借金は返さなければならないのかを読んだ。本書は室町時代徳政一揆・徳政令に関して研究した本で、室町時代を通じて、徳政一揆・徳政令がどのように変質していったかの様子がよく分かった。
目次

借上・土倉

承久三(1221)年の承久の乱の結果、鎌倉幕府は敵方の土地を没収し、味方に恩賞地の名目で分け与えた。いわゆる新補地頭である。しかし、東国出身の御家人が西国の見知らぬ土地でいきなり順調に荘園経営ができるはずもなく、彼らは経営手腕のある代官を採用するという方法をとった。そのような職種を借上と呼んでおり、彼らは荘園領主に代わって、現地の所領に赴いて年貢を徴収し、京まで運ぶという作業を代行していた。

借上達はこの結果大変富むことになり、経営を託された荘園からの年貢などを保管するための場所を確保する必要が生じた。そのため借上たちは耐火性のある蔵を建てるようになり、借上たちは土倉とも呼ばれるようになる。

実際の借上・土倉の身分は興福寺延暦寺の下級僧侶であったり、公家の雑役に従事する下人であった。

荘園から年貢が進上されるのはおよそ10月ごろであるが、都市住人である公家や武家はそれ以前につなぎ融資的な借り入れが必要な状況になっており、借上・土倉が融資役を担っていた。また、中世の農村での死亡率は5月から6月が高いことが報告されており、農村においても収穫以前に生活が困窮していたことが想像でき、資金が必要であり、この需要には荘園領主が応じていた。

専業の金融業者

15世紀に顕著になった飢饉や洪水、また室町幕府や守護からの役負担が増大し、荘園経営をしていた在地領主の経営基盤が悪化し、彼らが担っていた地域金融が崩壊した。その結果、地方の資金需要が都の土倉たちに流れ込み、都の土倉たちが専業の金融業者へと変わっていくきっかけとなった。

正長の徳政一揆

正長元(1428)年に機内各地で次のような債権破棄を求める動きが発生した。

  • 8月近江国で「山上・山下一国平均御徳政」と主張して、債務を破棄する。延暦寺が徳政令を出した。
  • 9月18日、京都の東の位置する醍醐の地で郷民たちが徳政を主張して債務の破棄を強行するが、幕府に鎮圧される。
  • 11月2日馬借が近江国から突然、下京へ攻め入り、徳政の名の下で債務破棄を実行した。
  • 同日奈良西郊の生駒・鳥見の馬借や南山城の木津・和束の馬借たちが奈良へ侵入し、債務の破棄を実行しようとした。
  • 河内国の叡福寺で、檀家が買得した後に寄進した土地が、元の売り主から取り戻される事件が発生。
  • 11月6日には播磨国矢野荘でも土一揆が蜂起した。この動きは矢野荘だけにとどまらず、播磨国全体に広がり、11月19日には北播磨の伊和神社付近で土一揆により文書が焼かれ、売却後21年は取り戻しの対象として、売却地の取戻しが行われた。
  • 同様な動きは伊賀、伊勢、若狭の各地でも勃発した。

この動きで重要な役割を果たしたのは馬借であり、馬借が各地の一揆を結び付けた可能性が指摘されている。そして、この時の一揆の構成者は、馬借、在地領主、荘園住人であった。また、この時に一揆で特筆すべきは、幕府は徳政禁制を出しているのだが、興福寺は徳政令を発令し、また、地域社会でも徳政一揆が独自に徳政令を出すという状況が起こっていた。

嘉吉の徳政一揆

嘉吉元(1441)年八月、近江で発生した徳政騒動は各地に伝搬し、8月28日には京都の清水坂で侍所の京極持清の軍勢と徳政一揆が攻防戦を繰り広げた。9月3日には、東は清水坂、南は鳥羽・竹田・伏見、西は仁和寺・嵯峨、北は加茂社と京都とを囲む形で徳政一揆は蜂起したが、その規模は数万人と見積もられている。

徳政一揆が京都を包囲し、封鎖したために、物資が運ばれず、放火と食糧難で京都はパニックに陥った。嘉吉の変後でもあり、弱体化していた幕府は9月12日付で、まず山城国一国に限定して徳政令を出した。

  1. 土地売買に関して、売却後20年を経過した土地は購入者のものとし、20年未満のものは元の持ち主に返す。ただし、幕府が認めたものは対象外。
  2. 寺社などに寄進する目的で購入した土地は対象外。寺社による貸付金である祠堂銭は対象外。
  3. これ以外の様々な貸し借りについては、質流れとなったものを除いて徳政令の対象とする。

京都の土倉の8割以上は延暦寺の配下であった。第二項目で幕府は寺社への配慮を見せたが、第一項目が適用されると、破綻する土倉が多数発生することが予想された。そのため、延暦寺をはじめとする抵抗もあり、永代売買地は徳政令の対象外となった。そして、これ以降幕府の徳政令では土地の売買は徳政令の対象外となった。

寛政三年の徳政一揆

寛政三(1462)年の徳政一揆は蓮田という牢人が首謀者として一揆を起こしたことで知られている。また、この時は単に京都の土倉を襲うだけでなく、京都近郊の荘園の倉も襲撃されていた。荘園の倉を管理しているのは在地領主であり、前回の徳政令を通じて、彼らが地域金融の担い手として復活していたことがここからわかる。彼らは徳政一揆から距離を置いていたのだ。

牢人が一揆に参加した背景には、嘉吉の乱後に赤松家が滅亡し、赤松家の家臣が牢人化した問題があった。その後文安四(1447)年に加賀国守護の後継問題をめぐり、京都でも畠山、細川を巻き込む騒動が発生した。その時赤松の旧家臣を中心とする牢人が多数京都に上洛したのだ。この騒動自体は大規模な戦争に至らず集結したが、上洛した牢人の多くはかっての縁故を頼って、京都近郊の荘園などに隠れ住んでいた。京都近郊の荘園は守護不入りの地で、牢人にとっては格好の隠れ場所だった。

文政元年の徳政令

応仁の乱発生直前の文政元(1466)年9月にも徳政令が出されたが、今回の徳政令は従来と異なる目的で出された。

応仁の乱前から、守護たちは会戦に備えて自身の領国から家臣団を京都に呼び寄せていた。にらみ合いが続く中、上洛した家臣団は都市生活の負担の大きさに財政的に疲弊し、しかたなく、衣類や武具を含めた所持品を質に入れて生活費を捻出したが、これでは戦にならない。このような状況に、京都に集結した一部の武士たちが土倉・酒屋を襲撃し、質物を強奪したのだ。幕府や守護は、本来このような暴挙を糾弾し、取り締まるべきだが、そうすれば自身の軍事力が低下するので、事態の終結を図るために、武士たちの強奪を一揆による債権破棄に見立てて、徳政令を出したのだ。

要するに、兵糧を確保するために商人・職人の財を強奪するという行為に対して、徳政令を適応したのだ。この後、味方となった武士たちに、兵糧料の代わりに徳政令を発令するということが常態化していく。このような不自然な軍事動員を改めたのは織田信長だった。

ここには記していないが、本書ではどのように室町幕府が財源を変えていったのかということも書かれていて、興味深い。戦国大名の兵粮事情 - 隠居日録にある分一徳政・分一徳政禁制も幕府の財源の一つだったということだ。