隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

エデュケーション 大学は私の人生を変えた

タラ・ウェストーバーのエデュケーション 大学は私の人生を変えた (原題 Educated A Memoir)を読んだ。

この本の内容は衝撃的だった。そして、不謹慎にも非常に面白かった。なぜ、不謹慎かというと、英語の原題にあるようにこの本は回顧録だからで、記憶の齟齬はあるにしても、書かれたことのほとんどは事実なのだ。本当にこんなことがあったのかという事が衝撃的で、内容が面白かったのだ。正に事実は小説よりも奇なりだ。

本書の表紙裏には「両親が政府、病院、公立学校に頼らないサバイバリストだったため」と書かれている。サバイバリストという言葉には全くなじみがなかった。英語版のwikipediaにはSurvivalism - Wikipediaという言葉があり、そこからは日本語のページプレッパー - Wikipediaがリンクされているが、どちらを読んでもちょっと荒唐無稽な考えに侵されているとしか思えない。だが、実際父親のジーンは食料や燃料を備蓄し、銃器を準備し、お金を金や銀に替えてその日のために備えているのだ。その日とは審判の日だ。ジーンは敬虔なモルモン教徒であり、実践者でもあった。そのため、タラは学校にも行かず、家で母親や父親の手伝いをして暮らしていた。タラは全部で6人の兄と姉がいるのだが、彼らも学校には行ってないか辞めさせられていて、しかも出生届も出されれていない子供も4人もいるのだ。

タラも12歳になったころ、父親の廃品回収やスクラップの仕分けの仕事を手伝うように言われたのだが、父親は安全対する配慮が全くなく、スクラップを周りを見ずに、投げ捨てて仕分けするので、タラにあたるのだ。それ以外にも危険なことや怪我があり、その仕分けの仕事は続けられないと思ったタラは街に出てベイビーシッターとナッツ類を箱詰めする仕事を得た。そのベイビーシッターの仕事が縁で街でダンスを教えているから参加してみてはと言われ、タラは参加することにした。その場面で、ちょっと驚きの表現が書かれている。

年少の子供たちのクラスがちょうど終わったところで、店内は六歳児であふれかえっていた。みなスパンコールがちりばめられた赤いベルベットのハットとスカート姿で、踊るようにして母親を探していた。子供たちが楽しそうに身をくねらせ、飛び跳ねながら店の中を通り抜ける姿を私は見ていた。細い脚は、薄い、きらきらしたタイツで覆われていた。まるで「小さな売春婦」だと私は思った。

もちろん12歳の少女が売春婦の意味を理解しているとは思えないが、子供たちの衣装が何かふしだらなものだと思ったのだ。彼女にそのような言葉を刷り込んだのは当然父親だろう。父親は本物の女性は足首から上は見せないというような考えの男なのだ。クリスマスにダンスの発表会があり、その時の衣装が父親にははなはだふしだらなものと感じられたために、激怒し、タラはダンスを辞めることになった。その後母親がダンスの代わりに合唱を探してくれて、タラの歌の才能が認められることになる。歌に関しては父親は否定せず、誇らしく思い、積極的に応援しているそぶりも見える。この歌が縁で、タラは大学を目指すことになる(合唱団の指導に興味が湧き、その仕事をするためには学位が必要だった)のだが、そこまでの道のりも長いし、そこからの道のりもまた長い。

日本語のタイトルに「大学は私の人生を変えた」と書かれているので、タラは大学に入ってからバラ色の人生が開けたのだと思っていたのだが、それは全くの間違いだ。この本の最初の方に「母と娘の二代に渡る分断」と書かれていて、どういうことなのだろう?と思いつつ読んだ(この本の最後の方になっても、タラと母親のフェイの関係は決定的に悪い状況にはなっていないのだ)。タラが大学に入ってバラ色の人生がやってくるどころか、世の中の真実を知ったタラと狂信的な行動をする家族との間の葛藤の物語が語られていた。

この本のタイトルは日本語では「エデュケーション」になっているが、原題は"Educated"で、これは「教育された」という事でだろう。それは本書に書かれている「無教養に基づく教えを他人から与えられたことで、私たちの考え方が形作られたことを理解した」という事を一語で表しているのだろうと思う。日本語のタイトルからは教育によって目を覚ましたというような印象を受けるが、実際にはそうではなかった。教育あるいは洗脳が彼女を苦しめたのだ。

そして、もうひとつ驚いたことが本書にはある。P493に「アルファベット順に記載されている以下の人名に関しては、仮名である」と書かれており、その仮名の人物名の中にはジーンとフェイも含まれているのだ。そして、兄・姉として登場していた人たちの名前も。たぶん訴訟のリスクを回避するために仮名にしたと思うのだが、分断は根深いものなのだと改めて感じた。