磯田道史先生の家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊を読んだ。本書は250年以上続いた徳川政権がなぜ滅びたのかを、徳川家康がどのように滅びないように仕掛けをしたかを説明しながら、解説した本だ。そして、徳川幕府崩壊後の明治についても、何が変わり何が続いたのかについて概説する。そして、最後に徳川家康の仕組みがどのように日本人に影響を与えたのかも検討している。
仕組みとその崩壊
- 改易
- 徳川幕府の初期の頃は跡継ぎがいないと御家取り潰しになっていたが、油井正雪の乱(慶安四年、1651年)や赤穂事件(元禄十年、1702年)以降、無嗣改易が減っていった。この結果いわゆる雄藩が残っていたことになる。
- 大名証人制度
- 藩主の正室と嫡子は江戸に住むことになっていたが、参勤交代の緩和とともに消滅した。
- 参勤交代
- 松平慶永のもと参勤交代の制度の改革が着手され、参勤は3年に一度、在府期間は最大100日とし、嫡子の居所は在府・領国とも自由、妻子の帰国も自由とした。慶永の持論は、外国の侵略に備えるために、諸大名の負担を減らし、国力の増強を図るべきだというものであった。
- 一国一城 令
- 元和元(1615)年に家康が決めた城数の制限で、原則「一つの国(藩)に一つの城」とした。しかし、南九州と東北は守られていなかったようだ。島津家は「麓」という支城を120近く残していた。伊達家では仙台城のほかに、片倉家の白石城や「要害」と称する支城があった。秋田の佐竹家にも久保田城以外に大館城と横手城があった。そして、幕末には海防の一環として、水戸に助川城が築城された。
- 大船建造の禁
- 慶長十四(1609)年家康は五百石以上の大船を西国大名から取り上げ、大船の建造と保有を禁止した。これは嘉永六(1853)年ペリー来航後、老中阿部正弘により廃止された。そして、長崎海軍伝習所を作り、幕臣だけでなく、長州藩や薩摩藩の藩士にも海軍技術を教え始めた。
- 貨幣
- 撰銭とビタ一文の戦国史 (中世から近世へ) - 隠居日録には幕府は銭の鋳造を江戸・坂本・水戸・萩などで請け負わせたと書いてあった。これらの銭座とその地の藩がどのように関連しているかわからないが、磯田先生は本書で藩が幕府の許可を得て鋳造していたと書いてある。どちらが正確なのかはよくわからない。天保六(1835)年に天保通宝という100文の通貨が発行されることになり、各藩の贋金つくりの効率が上がったというように書かれているが、この件に関しては本書の記述が正しいかどうかちょっとよくわからない。
- 言路洞開
- 阿部正弘により進められた。ペリー来航により全国の大名の協力なくしては国防ができなくなり、大名や旗本だけではなく、朝廷にも政治意見を聞くこととした。意見を聞きだしたことから、彼らが政治に参加することを求めだし、その流れを止めることはできなくなった。