隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

城割の作法: 一国一城への道程

福田千鶴氏の城割の作法: 一国一城への道程を読んだ。城割という言葉にはなじみがなかったが、この本のタイトルから多分城を破却することだろうという想像は付いた。著者によると城を壊す作法には「破るわる」と「捨るたたむ畳むたたむ」の違いがあり、その他の作法もあったということだ。これらを含む概念として「城割」という言葉を本書では用いているという。「太閤町割」とか「国割」というような政策が豊臣期に進められたが、「割」には新たな区画を造り、割り当てるという意味もある。つまり、本来ある姿が崩されることで、その結果として新たな街の区画や国境が創出されたという考えがあるのかもしれない。

破却

城の破却には自律的破却と他律的破却の2種類があり、自律的破却は更に降参の作法としての「自破(自分で破る)」と「たたむ(畳む・捨る)」があった。「自破」の場合はその後も城に居続けることができるが、「たたむ」の方はその城から去ることが必要だった。そして、たたまれていない城に対しては、攻め取った側が他律的・強制的に「わる」作法が必要であった。これは先住者の念を残さないように、建物一切を切壊し、更地のレベルにまで戻すことが必要だった。特に神仏を祀る建造物、城の象徴である天守や櫓、城域を示す塀、竹木(家の繁栄を示すシンボル)などは残すことが許されなかった。本書で上杉謙信の伝えた「破城之巻」という史料が紹介されているが、その作法は非常に呪術的だ。

一国一城の意味

生類憐みの令と同じように明確な「一国一城令」というものは存在しないが、一国一城の「国」が意味するのは「律令制の国」ではなく、本城の支配領域を意味し、「一国一城」とは支配領域において支城(端城)を持たず、本城のみとなった孤立無援の状況を表現する言葉だった。

福島正則の改易

福島正則の改易の理由は、石垣の修理を行うときに幕府に報告し、許可を得ずに行ったことだと理解していた。だが、こんな単純な事ではなかった。

もう少し詳しい経緯はこうだ。元和三年の春長雨で太田川が氾濫して、洪水となり、広島市中の河川が堤防が決壊し、多くの橋梁が消失した。また、夏の洪水でも城下一円が大災害に見舞われ、広島城も三ノ丸まで浸水し、石垣や櫓の壊れたところも多かった。元和五年四月になり、正則が行った広島城修復作事において、将軍秀忠の上意をえなかったことが問題となる。四月二十四日付の幕府老中土居利勝、町奉行島田利正による本田忠政宛て連書状によると、「正則が普請した城を『わらせ』て、秀忠のいかなる命令にも従う」という詫びを入れたので、それで済まされることになった。つまり、広島城の無断普請の件は城割という降参の作法で済ますことになるはずだった。ところが、六月二十日に幕府老中連署奉書が発せられ、それには「構置本丸、其外悉可被破捨之由」と書かれており、幕府側の考えていたのは、本丸を構え、それ以外は悉く破捨するべきだったが、実際には「上石」を取り除いて、人手がないから数日放置したのはけしからんということになった。

福島正則が幕府側の意図をきちんと読み取り、履行していたのならば、この時点での改易はなかったのかもしれない。