隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

日本史の内幕

磯田道史先生の日本史の内幕を読んだ。本書のまえがきで、磯田先生は次のように書いてある。

歴史教科書は、政府や学者さんの願望にすぎない。「国民のみなさん、われわれの歴史はこんなものでした。このように思っていてください」と、彼らが信じてほしい歴史像が書かれているだけである。

だから、一次史料である古文書を直に調べることの重要さを説いているのである。残念ながら、私には一次史料に当たって調べるだけの能力がない。あの筆で書かれた文字を読み解くことができないのだ。そこで本書を手に取ったわけだが、本書に収められているのはほとんどが何らかの古文書等の一次史料を見て気づいたことに関して書かれている。

加藤左馬殿百物語

加藤左馬は加藤左馬助嘉明のことで賤ヶ岳の七本槍のうちの一人である。加藤の戦闘技術は当時の武士の垂涎の的で、「左馬助殿軍語」という戦闘マニュアルが彼の家臣堀主水の手で編まれた。その現物が本書の様である。内容は、合戦の開始から城攻め・首実検まで戦国の戦闘の留意点が網羅されている。鎧の着脱は、「陣取って後まで具足は脱がぬものなり。自然ふっとしたることあるためなり」と書かれていて、万一のために鎧は脱がないものだと戒めている。また、物見に出たときは、「敵の人数は多く言わざるものなり。敵の人数を五千と見たら二千余か三千余りという。一万と見たら五千という。大将もその分別して聞くもの也」と書かれていて、面白い。また、城においての便所の作り方が書かれており、「城中の雪隠は指物で入っても構わぬほど、上を高くするもの也」となっていて、戦闘中は便所途に入るときも指物を外すことはなかったようだ。

桑野鋭

桑野鋭という大正・昭和天皇の二代の天皇を養育した傅育官がいた。昭和天皇は幼時、関ヶ原の合戦の経緯を教わり、小早川秀秋の裏切りで事態が決したことを知り、桑野に、「自分は二心あるものを嫌う」、と発言している。桑野の歌集によると、列車で関ケ原付近を通るたびに、裏切者さえいなければ、徳川の葵は切り払われていたという趣旨の歌を詠んでいたようだ。
太平洋戦争末期、ソ連が参戦してきたとき、昭和天皇は30分もしないうちに、降伏への行動をとっておられる。磯田先生は、背後の松尾山に布陣した小早川=ソ連が襲ってくれば、西軍=日本はおしまいだという考えが頭にあり、終わりになったのではないかと、想像を膨らませている。なかなか面白い見立てだ。

秀吉は秀頼の実父か?

秀頼が生まれたのは文禄二(1593)年旧暦八月三日生まれなので、秀頼が秀吉の子であるためには、文禄元年旧暦十一月初旬に、秀吉と淀殿が閨をともにする必要がある。この時期秀吉は九州の名護屋城にいたので、その時期淀殿がどこにいたかが重要だ。佐竹家臣の平塚瀧俊が留守宅に「淀の御前様も御同心のよし申し候」と書いた書状が存在するらしいが、これ一件だけらしい。一方大田牛一が書いた「太閤様軍記の内」によると、秀吉に同行していたのは側室の京極殿と書かれているようで、こちらが正しいとすると、秀頼は秀吉の子ではないことになる。この話は今までに聞いたことがなく、非常に興味深い。

毒味役

江戸時代に毒味役の武士が本当にいたかどうかの話なのだが、毒味役の武士が書き残した史料が残っていないらしく、磯田先生も見たことがないということだ。ただ、細川家かかわる起請文が残っているという。江戸時代の初期、細川忠興と子孫の間で深刻な対立があった。孫の細川光尚は隠居した忠興に毒殺されかねないと懸念したらしく、茶坊主や料理人から起請文(誓約書)を取ったようだ。その中に、「私は毒見の役を命じられ、殿に上げる物をよく吟味し、それぞれ調理するものに毒見をさせた上で、上げます」という趣旨のことが書かれたものがあるようだ。この場合の毒味役は自分でするのではなく、だれか他人にさせる役ではある。

幽囚録

吉田松陰がペリーの軍艦に乗り米国へ密航しようとして捕まった時に獄中で書いた書物が幽囚録である。磯田先生はこれを吉田松陰の予言書だというが、この中で松陰は以下のようなことを書いているらしい。

西洋も参考にした巨城を伏見に築いて天皇京都を守れ。兵学校で鉄砲歩騎の操練せよ。方言科(外語学科)を置き、蘭・露・米・英の原書を講じよ。エゾを開墾して、諸侯を封じ、間に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して国内諸侯と同じように参勤させ、朝鮮をせめて人質に取り朝貢させ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ。

松陰の門下生はほぼこの通り実行したのだが、彼らが本当にこれに基づいて実行したとするのならば、吉田松陰は恐ろしい思想の持ち主と言わざるを得ない。

戦国と宗教

神田千里氏の戦国と宗教を読んだ。

戦国大名と信仰

勝ち上がりの条件 - 隠居日録において軍師が呪術的な側面を帯びていたことが言及されていたが、戦争という行為自体が呪術を必要としており、戦場に臨むものは神仏の加護を必要とし、お守りを携行していた。それは例えば、矢除け・弾除けのお守りである。これはキリシタンにおいても同様であった。また、鎧・甲に神を勧進することも行われ、具足のお守りとして梵字を袖・胸板・押付・兜の背面と表に書いた。
また、相手方を呪術で調伏するようなことも行われていた。

キリシタン

当時の日本人の関心事が「家族の死者に対する法事」があり、死んだ父母や妻子を地獄から救えないかということであった。それについて尋ねられたフランシスコ・ザビエルは次のように記している。

日本のキリスト教徒たちには、一つの悲嘆があります。それは、地獄に堕ちたものにはいかなる救いもない、と私たちがいうと、彼らが深く悲しむことです。彼らがこのことを悲しむのは、亡くなった父母、妻子やその他の死者たちへの愛のために、この者たちを哀れんでいるからです。

織田信長キリスト教に対して好意的だったと言われているが、それを明確に裏付ける日本側の史料は殆どないということである。

面白いのは、戦国大名といえどもが家臣の同意なしにキリストに改宗できなかった。それは戦が神仏の加護を必要とする側面があるので、かってに改宗して、神仏の加護を得られなくなると、戦に負けてしまうと信じられていたからである。

秀吉の伴天連追放令

秀吉がキリスト教を警戒して、発令した伴天連追放令は、島津氏を討伐して帰国する途中の博多で天正十五(1587)年六月に出された。十八日の「覚」と題する十一ヶ条の文書と、翌十九日の伴天連追放令としての五カ条の文章がそれにあたる。「覚」では、

  • 一般にキリスト教を信じるか否かは個人の自由である
  • ただし、信仰の強制は不法
  • 一定の規模以上の領土を持つ大名に関しては、入信に当たり秀吉の許可が必要
  • 大名が家臣・領民にキリスト教信仰を強制するのは(本願寺門徒の行為よりも)不当であり、今後制裁を加える
  • 日本人が海外へ人身売買されていることは不法
  • ポルトガル人が牛・馬を食する風習は不法

と断じている。この「覚」が出された経緯は、伊勢神宮が秀吉に訴えたために出されたということだ。これはイエズス会の洗礼を受けた蒲生氏郷が伊勢半国の大名になったことへの警戒が背景にあるようだ。
1587年の10月2日付のルイス・フロイスの書翰によると、「覚」の出された日に日本のイエズス会を統括する副管区長であったガスパルコエリョに以下の三カ条の詰問があったという。

  1. イエズス会はなぜ日本人にキリシタン信仰を強制するのか、なぜ日本の僧侶と協調できないのか。今後九州に活動範囲を限定し、日本の僧侶の行う通常の手段による布教以外は許さない。それが不満なら、帰国せよ。帰国の船賃は秀吉が出してもよい。
  2. 運送・戦争に使用される馬、農耕に使用される牛を食するというが、それは日本の財産を損なうことである。もし、肉食をしたいのなら、鹿や野生のブタなどの食用の獣類を提供する用意がある。それを受け入れないのなら、日本に滞在してほしくない。
  3. ポルトガル人をはじめ、東南アジアからの渡来者が日本人を大量に買い取り、故国やその親族・友人との絆を奪い奴隷として売買していることを咎め、売却された日本人が故国に戻れるように尽力せよ。もし全員が無理なら現在日本から買い取った者たちを解放せよ。そのために身代金を秀吉が出す用意がある。

これに対して、コエリョは逐一反論し、

  1. 信仰を強制したことはないこと、神社・仏閣を破壊したものは信仰を得た日本人の自発的な行為である。
  2. 馬を食する習慣はなく、食したこともない。牛を食したことはあるが、好ましくないということならしないで済ます用意がある。
  3. むしろこちらから禁止を願いたい事柄であり、主に港を管理する日本人領主が容認していることの方が問題である。

と回答した。
これを受けて翌日、秀吉から使者が派遣された。第一の使者が改めて第一項目の「神社・仏閣の破壊、仏像を焼くという破壊行為」を糺すと、同じ回答を繰り返した。その次に訪れた使者によりいわゆる「伴天連追放令」が伝達され、その正本をポルトガル国王の権限が付与されたかピタン・モールの地位にあるドミンゴスモンテイロに渡され、執行がポルトガル人にゆだねられることになった。
コエリョの回答が全く不十分で、神社・仏閣の破壊や人身売買への回答が事実と乖離しているものであったことは既に研究で明らかにされている。