隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

誰も語らなかったジブリを語ろう

押井守監督の誰も語らなかったジブリを語ろうを読んだ。本書は押井監督がジブリの全作品について好きなように語った内容をまとめたものである。

押井監督自身はまえがきでジブリに対する悪口ではないと書いてある。たしかに宮崎監督に関してはアニメータとしてはその才能を高く評価しており、随所で褒めているが、監督としては才能を全く認めていない。今回押井監督がいろいろ解説しているが、たしかにジブリの作品はよく判らないものが後半は特に多くなっており、もののけ姫以降は私はあまり積極的には見ていない(テレビで放送されたものを録画して、暇なときに見るぐらい)。よく判らないのは、私の頭が追い付いていないのだと思っていたのだが、もともと整合性のあるように作品がつくられていないという説明を読んで納得した。押井監督によると、宮崎監督は多分脚本・シナリオの類を書いていないだろうということだ。実際宮崎監督は徳間書店刊行の「出発点 1979~1996 宮崎駿」で以下のように書いている。

ものがたりはまだできていなくてもかまわない。
ストーリーはあとからついてくる。キャラクターを決めるのも、もっと後だ。一つの世界の基調となる絵を描く。もちろん君の描いたものが、そのまま受け入れられるわけではない。全面的に否定さえることだってある。労をいとわず、と書いたのはこのことである。
そして、「初めて描かれた絵」がうまれる。作品の準備段階がはじまったのだ。
そんな世界、シリアスなのかマンガ的なのか、デフォルメの度合いは、舞台は、気候は、内容は、時代は、太陽は一つなのか三つなのか、登場する人物たちは、そして主題は何か……。描き進むうちにしだいに明らかになっていく。できあいのストーリーに従うのではなく、こんな物語の展開は?こんな人物は出せないか!幹を太くし、枝をひろげ、あの梢の先(それが発想の出発だったりする)、そしてその先の葉っぱへまで、枝はどんどん伸びていく。

シナリオなどないのだ。たしか「ポニョ」の頃だったと思うが、NHKが映画の製作に密着取材をしていて、それを放送した番組では、宮崎監督が映画の最後の所が思い浮かばず、苦闘している場面が描かれていた。そこで書いていたのはコンテだった記憶がある。

本書を読んで気づかされたのだが、ナウシカからジブリ作品だと思っていたのだが、実はナウシカトップクラフトが制作している。で、このトップクラフトがもととなりジブリができたのだとか。

面白いところは、押井監督の「天使のたまご」を評して宮崎監督が「まるで特攻隊だ」と表現したところ。その意味するところは「映画の作り方が、帰ってくることを考えていない(想像するに、そのあとの映画を作るための場所を考えていないということだと思う)」ということなのだが、押井監督は宮崎監督が「描いているものは特攻隊そのもの」断言する。なぜなら、自己犠牲によってしか救われない物語だからだ。

それと魔女の宅急便の原作の話。公開当時はこれが原作有の作品だったということは全然宣伝されていなかったと思うし、私が原作があると知ったのも随分後だったと思う。多分20世紀の末頃か。原作者の角野栄子さんはこのアニメ版を気に入ってなかったらしい。それでなのか、2014年に実写版が公開されたが、興行的には成功しなかったようで、原作者の評価はどうなのだろうか?この作品の所に書いてあるけれど、ジブリが作ると原作があってもジブリの作品になってしまうというのは言いえて妙だと思った。

さて、それに比べて高畑監督に対しては、もっと厳しい評価だ。「クソインテリ」という評価だ。私もジブリの高畑監督作品は全然見た記憶がなく、見たいともさほど思わなかった。一度テレビで「かぐや姫」が放送されていたので、録画して、暇な時に見ようと思ったのだが、酒を見ながら見ていると30分ぐらいで寝てしまったことがあった。しかし、その後でもう一度見直そうとも思わず、レコーダーから消してしまった。

火垂るの墓」の所で、押井監督はその内容を以下の様にまとめている。

兄が自分のプライドのために唯一の拠り所だった親戚の家を出て、結果的に妹を餓死させるという映画だよね。

これで、見たくなる様な映画だろうか?完全に鬱展開のストーリーだ。そして、

火垂るの墓』に話を戻すと、妹が餓死し荼毘に付すために、兄が隣の町に炭を買いに行くシーン、僕はそこでゾッとした。アニメーションで表現するとこうなるんだということを痛感した。

私には、こんな恐ろしいシーンはとてもではないが見られない。

高畑監督作ところで、「アリバイ」という言葉を3回使っているが(P150、P166、P167)、どうも本来的な意味とは違う使い方をしている。アリバイは現場不在証明という意味で、被疑者が事件現場にいなかったことの証明なのだが、押井監督は単に「言い訳」ぐらいの意味合いで使っているのではなかろうか?