隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

南朝研究の最前線

南朝研究の最前線を読んだ。日本史料研究会の「研究の最前線」シリーズの一冊で、近年の南朝研究の成果を紹介している。本書の初めでも述べられているが、南朝とは何とも捉えがたい存在だと思う。南朝が正統であるとされているが、実態は南朝は負け組であり、正統ではない北朝の末裔が現在の天皇に繋がっているというこの矛盾を一体どう理解したらいいのか、私には未だによく判らない。

朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった 中井裕子

幕府と朝廷の存在する時代、殊に鎌倉時代の国家体制というのは未だにどのようなものであったかよく判らないのだが、未だに研究者の間でも意見が分かれているようだ。説としては主に二つあり、一つは「複合国家論」で、異なる特質をもつ二つの国家が存在し、それそれの法・裁判権で統治していたという考えである。王朝国家(=朝廷)と封建国家(=幕府)があり、互いに協調関係にあったとする考え方である。もう一つは、「権門体制論」で、権門とは国の政治に影響力を持つ家のことである。天皇家・公家・武家、そして寺社勢力が権門とされる。一つの権門で他の権門を圧倒して服従させることができなかったので、それぞれの足りないところを補い合いながら、一つの国家を形成していたとする考え方である。

また、両統迭立というと、両統から天皇を交互に出すことになっているようなイメージを持っていたが、実際はそのようなことはなく、天皇の即位順、上皇治天の君の順を見ると、同じ皇統が連続していることがわかる。

新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源氏嫡流」だったのか? 谷口雄太

太平記以外の同時代の史料(神皇正統記、保暦間記、増鏡)では、新田を足利一門と見なしている。また、伊勢の神宮徴古館本「太平記」でも新田は足利の一族であると記しているというのだ。後年徳川が、新田源氏につながり、足利源氏を否定する形で征夷大将軍になったことが、いかにいい加減な話であるかというのがよく判る。

建武政権南朝は、武士に冷淡だったのか? 花田卓司

建武政権は、恩賞の前提となる武勲認定に問題を抱えていた。尊氏の六波羅攻略戦に参陣した証拠として提出した到着状を見ると、六波羅陥落後の日付がかなりある。また、日付を改竄したものも見つかる。また、新田義貞の鎌倉攻めでも、150騎ほどで挙兵した新田軍が、連戦を重ねていくうちに、雪だるま式に増えていったさまが、太平記に記されている。このように、元弘三年四月まで朝敵だった大部分の御家人たちは、幕府滅亡の直前に突然官軍へと変貌した。そのため、最終段階で倒幕に参加した御家人たちの勲功をどこまで評価し、いかほどの恩賞を与えるかは難しい判断だっただろうというのだ。そのため、遅々として進まない恩賞給付に嫌気を差して、建武政権を見放したのだろうということだ。

建武政権崩壊後の南朝にあっては、状況が変わり、武功・軍功に応じて官位を授与し始める(官位の授与には金銭的な裏付けが必要ない)。そして、これは観応の擾乱後、北朝側で取り入れられた。

後醍醐は、本当に<異形>の天皇だったのか?大塚紀弘

以前から、なぜ天皇上皇になると出家するのかが不思議であったが、その説明として、以下のように論じられていた。

天皇は、記紀神話に基づく神祇信仰の最高祭祀者、あるいは祭祀の最高責任者として神聖視される存在でもあった。そこで在位中の天皇は、神仏隔離、神事優先の原則から、汚れを遠ざけて神祇の祭祀に専念すべきとされた。そのため、天皇は退位して上皇になることで初めて、積極的に仏教とかかわれるようになった。

戦前の南北朝時代研究と皇国史観 生駒哲郎

この項になぜ南北正閏問題が起こったのかが記されている。事の起こりは代議士藤沢元造だった。文部省が毎年全国の師範学校長を集めて開催していた講習会の講師を担当した国定教科書編修官の喜田貞吉が、北朝のみが正統であると述べたように誤解された。それを代議士の藤沢の耳に入ったのだ。藤沢は議会に質問を提出するにあたって、学者側の説明を受けたいと訴えた。文部省では、講演者の喜田は避け、国定教科書の起草委員であった三上に依頼し、その会談が文部省内で実現した。しかし、三上は種々の理由で遅参し、三上の説明を藤沢は理解しなかった。
一方、明治四十四(1911)年一月十九日の読売新聞は文部省編纂の国定教科書尋常小学校日本歴史」が南北両朝を並列させていることを問題とした記事を掲載した。当時の桂内閣は事前に藤沢の質問を撤回させた。その結果、藤沢派議員を辞めてしまったのである。そして、藤沢の辞任が火に油を注ぐような結果となり、却って世間では問題視されたというのだ。今でいうところの大炎上であろう。