隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

コロンブスの不平等交換 作物・奴隷・疫病の世界史

山本紀夫氏のコロンブスの不平等交換を読んだ。勉強不足でコロンブスの交換という言葉を知らなかったのだが、最初に用いたのはアメリカの歴史学者のクロスビーで、1972年に発表したThe Columbian Exchangeから広まったということだ。日本語ではコロンブスの交換という風に訳されているようだが、筆者ははたして「交換」という表現は妥当であるのだろうかと疑問を呈する。「交換」というと対等な関係を想起させるが、新大陸と旧大陸との間の交換は極めて一方的で、旧大陸側の利益が極めて大きくなっているからだ。本書では旧大陸と新大陸で交換された、「トウモロコシ」、「ジャガイモ」、「サトウキビ」、「家畜」について着目し、「疾病」という新大陸が受けた悲劇について言及している。

トウモロコシ

トウモロコシは改良に改良が重ねられた作物であると推測される。その顕著な特徴は、トウモロコシは穂軸に数多くの種子をつけるが、その種子が何枚もの葉によっておおわれており、種子の散布の能力を失っているように見える。仮に穂軸が地面に落ちたとしても、あまりにも多くの発芽が一斉に起きるので、水や養分が足りなく生育する機会がほとんどない。トウモコロシは人手がなければ、自然環境課では全く生存できない植物になっている。

トウモロコシの祖先種はテオシントであると考えられているが、テオシントの穂軸は長さ2センチぐらい、太さは数ミリで、トウモロコシと比べるとかなり小さく細い。品種改良には数千年単位の歳月がかかったのではないだろうか。

トウモロコシの栽培と灌漑農法とは表裏一体のように密接した関係にある。トウモロコシが栽培されていたメソアメリカは、その大部分が雨の降らない砂漠になっており、当初人間の居住できる地域は、アンデス川の流域にできたオアシスに限られていた。砂漠地帯での灌漑の発達は農地の拡大につながり、人口の増大につながった。メソアメリカでの灌漑は山岳地帯に位置するために、湧水を利用したり、オアシス地帯に限られるという特徴があった。山岳地帯での灌漑は、斜面に水を引くことにより土壌浸食を受けやすく、そのような地域では、階段耕地の建設が必須であった。

トウモロコシをヨーロッパに持ち帰ったのはコロンブス一行のようで、第三次航海(1498年)の記録の中に、「私はこれを彼の地に持ち帰りましたし、既にカスティリャ(スペイン)にもたくさんある」と記ている。しかし、トウモロコシはヨーロッパでは最初はあまり関心を持たれていなかったようだ。やがて、北イタリアで、トウモロコシを材料につくったポレンタというものを主食にするようになっていた。ポレンタはトウモロコシの粉を練り上げたいわゆる粉粥である。その後、ハンガリー東部、ルーマニアユーゴスラビアギリシャセルビアバルカン半島を中心とするヨーロッパ南部に広がっていき、それが同地域の人口増加にもつながった。その後、西アフリカ、東アフリカと広がっていった。

トウモロコシは他の穀物と比べて非常に収穫量が多く、1エーカー当たりで比べると小麦の2倍はあるという。また、様々な気候や異なった環境でも栽培できるので、小麦などの育たない生育条件下でも、トウモロコシであれば育つのだ。

ジャガイモ

ジャガイモの起源地は中央アンデス高原、とくにティティカカ湖畔辺りがと考えられている。というのも、この地域にジャガイモの最も多様な栽培種がみられ、その祖先種と考えられる野生種もこの地方に自生しているからだ。野生のジャガイモの問題は、アルカロイド系の有毒物質を含んでいて、100グラム当たり100ミリグラム以上のソラニンを含んでいるが、人間は15から20ミリグラムのソラニンが含まれているだけで苦みを感じ、人間には有毒であるという。アンデス高原の先住民族社会では様々な毒抜き方法が行われており、これは祖先から受け継いだものだろう。単純な方法は、収穫したジャガイモをの天日にさらすことである。ティティカカ湖畔は熱帯高地に位置するので、日中はかなり気温が高く、夜間は氷点下になる。そのため、夜間に凍結したジャガイモは日中に暖められて、指で押しただけで水分が噴き出るようになる。そのようなジャガイモを、潰して脱汁すると毒抜きが完了するという。

ジャガイモを誰がヨーロッパにもたらしたかは定かではないが、がヨーロッパの記録にあらわれるのは1565年から1572年の間だという。スペインのセビリアの病院では1573年にジャガイモを食べものとして供されていた。しかし、ジャガイモもヨーロッパでは当初あまり関心を持たれていなかったが、スペインからフランス、ドイツ、イギリスなどに徐々に広がっていった。

フランス

フランスでは、ジャガイモを食べると「腹にガスがたまる」とか「頼病になる」などの偏見があったが、転換点となったのは18世紀末の飢饉である。1770年の飢饉は酷く、多くの人々の命が奪われた。この事がきっかけとなり、農学者・化学者であるオントワーヌ・オギュスタン・バルマンティエが、七年戦争(1756-63年)のときにドイツで捕虜となり、ジャガイモを食事として与えられていたことにヒントを得、帰国した後に、ルイ16世の庇護のもとジャガイモの栽培と普及に努めたのだった。そのおかげで、19世紀になるとフランスのジャガイモの栽培は、年々拡大していき、1789年には4500ヘクタールだったものが、1892年には300倍以上の151万2136ヘクタールになった。

ドイツ

ドイツにはジャガイモは16世紀末に伝わったようだが、最初は食物とはみなされていなかった。転機となったのは三十年戦争(1618-48年)で、その後の七年戦争でもジャガイモ栽培の利点は明らかになった。そして、ドイツでもジャガイモ栽培が始まるが、浸透したのは山がちで土地がやせている地域に定着していった。しかし、やはり1770年の飢饉が転機となり、18世紀末から本格的にドイツで急速に広がっていった。

アイルランド

アイルランドにジャガイモが導入されたのは16世紀末頃らしいが、17世紀には畑の作物として受け入れられ、18世紀には主食として利用され始めていた。というのも、アイルランドは北緯50度を超える高緯度地方にあり、約一万年前の洪積世までは、全島が氷に覆われていたため、土壌が薄く、気温が低いので、作物の生育に適した腐葉土があまりなかった。そのような土壌や気候でも、ジャガイモはよく育ったのだ。

また、当時のアイルランドはイギリスの植民地のような状態で、イギリス人に土地を奪われ小作農になったアイルランド人は主として小麦を栽培していたが、小麦を栽培していた小作農は地代を払わなければならなかった。しかし、ジャガイモ対しては地代を払う必要がなかったのだ。ジャガイモの栽培には大規模な資本を投下する必要はなく、当時はジャガイモを植え付けるところだけを耕して、肥料に家畜の糞や海藻を用いていた。こうして18世紀の中頃にはジャガイモの主食になっていった。

1845年にイギリスのワイト島で発生したジャガイモ畑の重大な疫病がアイルランドまで広がり、ジャガイモの生産は半分になってしまった。更に、1846年には9割のジャガイモ畑がやられ、更に1848年にふたたび深刻な飢饉に陥り、餓死者が続出した。実際には、食料不足よりも、栄養不足で体力が弱り、様々な病気で死んだようである。このような状況で、半ば難民と化したアイルランド人は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドに移住していった。その人数はおよそ150万人と言われている。

サトウキビ

サトウキビは旧大陸から新大陸にもたらされたものであるが、当初からサトウキビからとれる砂糖をヨーロッパに持ち帰ることを意図していたようだ。サトウキビは熱帯のニューギニアが原産地で、緯度が高く低温のヨーロッパでは栽培できない。ローマ時代から砂糖はアジアから運ばれていたので、大変高価な輸入品であった。やがてアラブ人がスペイン本土にサトウキビを持ち込み、栽培方法と製糖技術を伝えた。その後サトウキビは北アフリカ一帯と地中海のいくつかの島で栽培され、スペイン本土でも実験的に栽培された。そして地中海で作られた砂糖は、北アフリカ、中東、ヨーロッパに供給されるようになった。しかし、中世のヨーロッパでも砂糖は貴重で高価であった。

コロンブスはサトウキビをエスパニョーラ島に持ち込み、サトウキビの栽培が始まったが、何度も失敗が繰り返された。サトウキビから砂糖を作り出すには、糖分を多量に含む茎を搾る必要があり、そのため適切な方法で栽培し、収穫時期を見極めて刈り取らなければならない。そして、収穫後は直ちに茎を破壊して搾汁しなければならないのだ。そのため1515年カナリア諸島から精糖の熟練技師がつれてこられ、カリブ海における本格的な砂糖生産が始まることになる。1516年位はエスパーニャ島に製糖工場が作られ、1520年には早くも精製された砂糖の輸出が始まった。

サトウキビ栽培は最初の頃から深刻な問題を抱えていた。ヨーロッパ人の侵略とともに、先住民人口が急激に減少したたために、労働力不足に陥ったことだ。それでヨーロッパ人は不足した領動力をアフリカからの奴隷で補ったのだ。

家畜

ヨーロッパ人は新大陸に牛、馬、羊、ヤギ、豚、ロバ、ラクダを持ち込んだ。このうちロバ以外は新大陸に定着した。アメリカは南北に長いので、様々な環境が存在し、餌となる草をめぐって競合する動物が少なかったのがその原因と考えられる。豚や牛などは野生化したようである。

疾病

疾病は意図してヨーロッパ人が持ち込んだものではないが、抵抗力のなかった先住民にとっては悲劇的なことだった。天然痘、はしか、インフルエンザなどがその疾病に当たり、これはコロンブスの一行も疾病を持ち込んでいたようだ。1504年の第四回航海のときにエスパニョーラ島の人口は七分の一になっていたと報告されている。

逆に新大陸から旧大陸に持ち込まれたのが梅毒だ。梅毒の起源にはヨーロッパ起源説とアメリカ起源説があるようだが、筆者はコロンブス以前にはヨーロッパでは梅毒の記録がないことから、アメリカ起源説を取っている。1493年にはスペインのバルセロナで流行していたという記録がある。そして、1495年にはドイツ、フランス、スイスに出現し、1496年にはオランダ、ギリシャ、1497年にはイングランドスコットランド、1499年にはハンガリーポーランド、ロシアと広がっていった。