隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

戦乱と民衆

戦乱と民衆を読んだ。この本は2017年10月に行われた国際日本文化研究センターの一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」の内容をまとめた本で、倉本一宏、呉座勇一、フレデリック・クレインス、磯田道史の各氏が講演した内容と、講演後に行われた一般公開座談会の内容、更に後日に行われた座談会の内容を収録している。タイトルの通り、日本史における戦乱とその時民衆はどのようにその戦乱とかかわったのかが紹介されている。

白村江の戦いと民衆 倉本一宏

最近のテレビなどを見ていると白村江は「はくそんこう」と発音するし、百濟は「ひゃくさい」と発音している。本書では書かれていないが、倉本先生によると「はくすきのえ」とか「くだら」と当時読んでいた証拠は特にないということだ。後世の人間がそのように呼び始めたから、我々も子供の頃そう教えられたのだと思うのだが、いったいいつごろからそのように呼称するようになったかは興味深いところだ。

この章を読んでいて驚いたのは、日本霊異記日本書紀続日本紀白村江の戦いの帰還者の記録があったとのことだ。それと、朝鮮半島に連れていかれた兵士は実は農民ということで、戦闘訓練などもろくに受けていないので、端から勝てるという目はなかったのではないかと思われる。

応仁の乱足軽 呉座勇一

この章で説明されていることで興味深かったのは、土一揆の年代別の発生の有無で、応仁の乱の前後では1から3年に一回の頻度で土一揆が起こっていたが、応仁の乱のときには、土一揆はピタリと止まっていることだ。これはどういうことかというと、土一揆に参加していた民衆が、応仁の乱が始めると足軽として、乱に参加していたということ。そして、足軽には給金は払われておらず、そのため乱取りによる略奪が彼らの収入源だったというところだ。

オランダ人が見た大坂の陣 フレデリック・クレインス

オランダ商人とかイエズス会の宣教師が大坂の陣に関して本国に送付した記録が残っているというのを知らなかったので、新鮮な驚きだった。また、大坂城はあまりにも巨大でその中に町人も住んでいたということをついつい忘れてしまうのだが、大坂の陣が始まって、町人が退避した後に、町は牢人者とその家族で占拠され、冬の陣が収まって戻ってきた町人が暮らそうと思ったら、もう住むところがなかったというのが興味深い。大坂の陣に集まった牢人は十万人とも言われているので、それだけの人数をどこに収容したのだろうと漠然と思っていたのだが、そういうことだったのか。

禁門の変 磯田道史

幕末の禁門の変で京都は火事になったというのはよく聞くが、今まで誰が火をつけたのかということには私は余り頭が言っていなかった。それに関しても記録が残っているようで、どうやら会津のゲリラ活動を恐れた薩摩・会津が京都に火を放ったというのだ。そしてその指示のもとは一橋慶喜で、京都の民衆もそのことは認識していたという。

後日に行われた座談会の中で披露されたエピソードに、なぜ京都があまり爆撃されなかったのかという話がある。京都の空爆が比較的軽微だったのが、原子爆弾を落とす候補地だったから、その効果を正しく計算するために、建造物の破壊を避けたというのだ。ではなぜ京都に原爆を落とさなかったのかというと、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが原爆投下を押しとどめたというのだ。京都は日本の首都なので、そこに原爆を落とすとアメリカに対する敵愾心が高まって、占領統治がしづらくなることを懸念したというのだ。これは知らなかった。