隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか

山本博文先生の大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいかを読んだ。

いつの放送だったのか正確には覚えていないが、NHK BSプレミアムの英雄たちの選択で「14代尾張藩徳川慶勝、15代尾張藩徳川茂徳会津藩松平容保京都所司代松平定敬が兄弟」というような説明がなされていた。この放送を見るまで、このことを知らなかったので、どういうことからそんなことになったのだろう?と不思議に思っていた。本書は江戸時代の武士の家系をつないでいくことがいかに難しいのかということを、徳川宗家、尾張家、紀州家、水戸家などを中心に記述されており、その中でこの話題にも触れていた。なぜ難しいのかはそんなに複雑な話ではなく、若くして亡くなることが多く、特に幼年でなくなった場合直系の跡取りがいないためだ。

尾張徳川家

尾張家は徳川の分家大名としては最高の家格に位置付けられている。石高は61万石。初代は徳川家康の九男の義直で、慶長五(1601)年生まれで、秀忠とは22歳も離れていた。2代めの光友は子供に恵まれ、十一男五女をもうけた。そのおかげか、ここから支藩が生まれている。長男の綱誠は尾張家三代目を継ぎ、次男善行は美濃高須藩を、三男義昌は陸奥梁川藩を立藩した。

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徳川尾張家系図

この高須家の九代義建には十男があり、ここから上記の「14代尾張藩徳川慶勝、15代尾張藩徳川茂徳会津藩松平容保京都所司代松平定敬」の兄弟が誕生したのだ。この系図を見ると本書のタイトルの家系をつないでいくことがいかに困難だったかがよくわかる。

家系図の作成には以下のテンプレートを利用させていただきました。

水戸徳川家

これも以前から不思議に思っていたことで、「光圀は長男を差し置いて自分が水戸徳川家を継いだことを終生気にしていた」ということを、色々なところで見聞きしているのだが、なぜこのようなことが起こったのかの説明が書かれているものを見たことがなく、なぜそうなってしまったかなんとなく不思議に思っていたのだが、本書に書かれていた。

元和八(1622)年水戸藩徳川頼房に長男(幼名竹丸、後の頼重)が生まれたが、嫡子として表に出されなかった。その理由として三田村鳶魚は「讃岐高松松平家譜」を参照して、「頼房はまだ側室にも迎えていない家臣の妹(侍女谷氏)と、彼女の兄の別荘で関係を持ち、子供をもうけてしまい、頼房は外聞を気にしていたからだ」と述べているということだ。そして、その子を殺すように命じた。谷氏を預けられた三木仁兵衛は当時大奥で権勢をふるっていた頼房の養母英勝院に報告して、秘かに育てた。

寛永五(1628)年頼房に次男が誕生した。この母も同じく谷氏であったが、この時は頼房に堕胎するように言われていてたのだが、秘かに出産した。今回は英勝院の計らいで、将軍家光に披露されたので、実子として表に出された。このため表向きは次男の光圀が惣領として認められたのだった。

頼重は暫く三木家で養育されていたが、寛永七(1630)年9歳の時に京都の滋野井大納言季吉に預けられ、洛西嵯峨に移り住んだ。後に出家させることを考えていたようだ。だが、その後英勝院から大御所秀忠に頼重の存在が知らされ、寛永九(1632)年江戸に戻され、水戸藩邸に居住することになった。その後頼重は寛永十五(1638)年従五位下右京太夫に任じられ、翌十六年に常陸国下館に五万石を与えられた。更に翌十七年従四位下侍従に昇進し、生駒家が改易となった後の讃岐高松十二万国を得た。