隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

参勤交代

山本博文氏の参勤交代を読んだ。

目次

参勤交代制度の成立

徳川家康は当初必ずしも全国の大名と主従関係を結んでいたわけではないので、家康も最初は上洛して京都で諸大名の拝謁を受けた。『当代記』には、家康が諸大名に、1603(慶長8)年の年頭の儀式について、元旦は大阪城の秀頼に、二日は伏見城の家康にとい順序にするように命じたと記されている。しかし、家康が将軍に任官れると、武家の第一人者として、大名の拝謁を第一番に受ける根拠が成立し、徐々に変化していったようだ。また、徳川氏への参勤に先立ち、江戸に人質を出す動きの方が先にあったらしい。例えば、

時代 大名 人質
慶長元年 藤堂高虎 弟 正高
慶長4年 堀秀治 子 利重
" 浅野長政 末子 長重
" 前田利長 母 芳春院
慶長5年 細川忠興 三男 忠利
慶長6年 毛利輝元 嫡子 秀就

大坂の陣で豊臣は滅びる1615(元和元)年からは諸大名は競って江戸に参勤するようになり、1618~1619(元和3~4)年ごろには隔年の周期が定着していったようだ。そして、1623(元和8)年頃から、妻子を江戸に住まわすように、譜代の大名旗本から諸大名に助言という形を用いて、したようだ。

最終的に参勤の制度が文書として発布したのは家光のときで、1635年の武家諸法度を改定したときの規定からとなる。

一、大名・小名、在江戸交代、相定る所なり。毎年夏四月中参勤致すべし。従者の員数近来甚だ多く、且国郡の費え、且人民の労なり。向後、其の相応を以って之を減少すべし。但し、上洛の節は教令に任せ、公役は分限に従うべき事。

これにより、西国大名と東国大名が隔年で江戸に参勤する制度が完成した。ここで一点重要なことは、幕府は従者の数を減らすように指示をしており、参勤交代が諸大名の財政負担を圧迫することが目的であるというのは一概に言えないということである。ただ、結果として、財政を圧迫したことは事実である。

参勤の手続き

参勤の時期は外様大名は4月、譜代大名は6月か8月と規定されていたが、かってに出発してよいわけではなく、その都度参勤の時期を幕府に伺う必要があった。各大名家は決まったことであっても、幕府の許可を受けなければならなかったのだ。

参勤伺いは国許から使者を立て、書状で伺うこととなる。使者には江戸の留守居役が同行し、老中に提出する。老中から連署の奉書で参勤の時期が指示される。老中の奉書が到着すると、江戸へお礼の使者を派遣する。といいような、煩雑な手続きを踏んでいた。

参勤交代の性格上他藩の領地を通行することになり、通る方は勿論気を使うが、通られる方からも配慮がされている。他大名の領地を通るときは、行列から、原則として前もって使者を派遣し、領内の通行を謝す。また、通られる方は、通行のために、橋は道路の清掃を命じる場合があったようだ。

大名が江戸に到着すると、老中まで江戸の到着を披露する。すると、幕府から家格に合わせて上使が派遣されてくる。例えば、国持大名であれば。老中が使者として藩邸を訪問する。その後、幕府年寄りから登城を命ずる奉書が到来し、その翌日朝に登城して、参勤後初めてのお目見えをする。藩主は、それが済むと、各年寄りの屋敷を訪問して、挨拶する。

参勤交代中のトラブル

道中に何事もなく終わればいいのだが、そういうわけにもいかず、トラブルが発生することもある。

明石源内寝覚鉄砲

明石藩は越前家支流の松平氏で、徳川第十一代将軍家斉の第五十三子の斉宣が、松平斉韶の養子となり明石藩を継いだことがあった。第五十三子とはいえ将軍の子で、周囲にもおだてられていたので、自らの威厳を保つことに専心していた。ある時に、参勤交代のため木曽路を通過した際に、猟師源内というものの子で、当時三歳ばかりの子供が、大名行列を横切ってしまった。それ、「道切り」ということで、家臣たちがその幼児を取り押さえ、本陣に連れて行った。そのため、当夜の本陣には、前後の宿駅から大勢が出て、幼児を貰い受けるために集まった。村の名主や、本陣の亭主に加え、坊主、神主まで集まってきて、「御容赦御宥免」と嘆願するが、「幼年にもあれ、予が行列を犯す上は決して宥免罷りならぬ」と切って捨ててしまった。

収まらないのはその木曽路の領主である尾張家である。領民を保護ずるのは領主の使命であり、行列を横切ったのは幼児であったことから、「いかにしても明石の乱坊は捨ておけぬ」と早速使者を送り、「先日のごとき理無尽を働かるるにおいては、今後当家の領土は通行御無用である」と申し送った。

明石から江戸の行くのに尾張家の領地を通行しないわけにはいかないので、明石藩では尾張領内では行列を立てず、町人か農民のような風体で通行する仕儀となった。

収まらなかったのは父親の猟師源内もである。源内は山稼ぎの飛び道具でひそかに機会を伺っていた。1884(弘化元)年六月二日、明石侯松平斉宣の喪が発表された。享年二十歳。

他藩とのすれ違い

東国・西国とも同時期の参勤なので、通常はすれ違うことは稀であるが、病気や代替わりなどで参勤年がずれることがあり、道中でのすれ違いもあった。1730(享保15)年三月秋田藩佐竹家一行が米沢藩上杉家一行とすれ違った時は、以下の対応となった。

明半過、大田原、御発駕遊ばれ候、曾禰村と鬼流村の間にて上杉殿江御出会に候、此方人数左方江御付、惣下馬候、あの方ハ右の方に片づき、下馬候、上杉殿御通りの節、手前も下座致し候、乗物戸御開き、御自宜これありき候、御籠通り過ぎ候と、何も乗馬致し候、手前は乗物に乗り候、あの方の面々も右の通りに候、上杉殿には昨夜氏家に御泊の由

佐竹家も米澤家も同格の家格で、道は左側通行に従って、相手に譲っている。また、皆下馬し、家老は下座し、藩主は駕籠の戸を開けてお辞儀している。

御三家の場合は家格が違うので、尊大な形式をとる。たとえば、有名な「下に―、下に―」という行列の制止声であるが、これは御三家に限られていた。「前世界雑話稿」によると、「往来ハ徒の物シタニロ~と声高ニて呼ふ、往来の物ハ皆下ニ居る也」とあり、「老中・若年寄り諸大名は制し声なし、道を妨ける者ハあたり前の声ニて脇へヨレという、制し声には非る也」と書かれている。

そのため、諸大名は御三家と行き遭うことを嫌った。大藩は偵察の者を出して、御三家と行き遭わないように、道を変える。小藩の場合は脇道に逃げたのである。

脇本陣をめぐるトラブル

大田南畝の「半日閑話」に載る話であるが、1818(文政元)年、相馬藩の家臣が本陣に宿泊すべく到着していた。ところが会津藩の家臣がやって来たために、やむを得ず脇本陣に移動した。これは会津家の家格を尊重したためである。しかし、既にくつろいでいた本陣を追い出されてたので、腹の虫がおさまらない。この時会津家の家老が脇本陣に槍をたまたま忘れていて、会津藩は槍を返してほしいと申し入れたが、相馬藩はそれを拒絶した。曰く、「この槍を返してほしければ槍持ちの首を持ってこい。武士が槍を落とすなど、大いなる恥」。

会津藩の使いの者は、家老にいきさつを知らせたうえで、やり持ちの首を打ち、それを携えて、もう一度交渉に出かけた。

「槍を返していただけませんか」

「槍持ちの首を持参すれば、返すと言っておるのだ」

相馬藩の者は下手に出た会津藩の使者に槍を返そうとせず、悪口雑言を投げかけたので、堪忍袋の緒が切れた会津藩の使者は

「それならば、……」と、風呂敷に包んだ槍持ちの首を差し出し、顔色を変え狼狽する相馬藩の者二、三人を抜き打ちに切り捨て、相手の宿に踏み込んだ。騒ぎを聞いた相馬藩の者は残らず逃げたので、使者は槍を持ち帰ったという。但し、この話の真偽や後日談はわからないが、南畝はこの件の届けが道中奉行に達していると書いている。

参勤交代の終焉

1862(文久2)年薩摩藩島津久光が側近を含む兵千人ほどで京都に上洛した。世にいう率兵上京である。これは幕府の許可を得ずに兵を動かしたことになり、江戸時代においては異例のことであった。久光の狙いは、自藩を強力に統制し、その軍事力と朝廷の権威を以って幕府に改革を促すことにあった。5月6日、朝廷は久光の意見を聞き入れ、勅使を江戸に派遣することになった。勅使とその警護をする久光は5月22日京都を発った。朝廷は以下の三カ条のうちいずれかを取るように幕府に要求した。

  1. 将軍が上洛し、朝廷において国政を討議する。
  2. 島津・毛利・山内・伊達・前田の五大藩によって五大老を設置し、国政に参加させる。
  3. 徳川慶喜(御三卿、一ツ橋家)を将軍後見職に、松平慶永(春嶽 家門 越前福井藩主)を大老にする。

一行は江戸に6月7日に到着し、10日に登城し、将軍に勅旨を伝えた。幕府側は当初要求を拒んでいたが、結局は慶喜を登用することとなった(6月28日)。これは三カ条の三である。久光は8月21日に京都に向けて出発したが、この時神奈川の生麦村でイギリス人が久光の行列の前を横切ったため惨殺されたのが、生麦事件である。

その後松平慶永のもと参勤交代の制度の改革が着手されるのだが、参勤は3年に一度、在府期間は最大100日とし、嫡子の居所は在府・領国とも自由、妻子の帰国も自由とした。慶永の持論は、外国の侵略に備えるために、諸大名の負担を減らし、国力の増強を図るべきだというものであった。この改革により、武家奉公人や町人が大打撃を受けた。足軽・中間・渡り徒士らが失業し、その数は数万人に及んだという。