本書では大石内蔵助が遺した「預置候金銀請払帳」を基に元禄赤穂事件を考察している。この史料は討ち入りのために費やされた経費の入出金記録で、神奈川県箱根町にある箱根神社に所蔵されている。渡辺世祐氏の「正史赤穂義士」によると、
浅野大学*1の手許にあったのであるが、大学は後に幕府から旗本交代寄合に取り立てられて、宝永7年安房と上総の間に於いて500石を頂戴し、青山隠田に屋敷を頂戴していた。何時の間にかこの請払帳が外に出て、或いは内蔵助が江戸に下るときに復讐を箱根権現に祈っているために、大学から権現に寄付したものであろうか、確かなことは分からぬが、権現の宝物になっている。
と書かれていて、なぜ箱根神社にあるのかの正式な来歴は分かっていないようである。この文書自体は矢頭長助教照が書き、その最後と各紙に内蔵助の黒印が押してある。内蔵助は本文書を浅野内匠頭の正室である瑤泉院の用人である落合与左衛門に送ったことは分かっているようである。
この史料自体は新史料というわけでなく、以前から知られていたということだが、私は存在自体知らなかった。
入金
いわゆるこの軍資金の入金元は4つあり、
- 赤穂にて巳六月四日受取。 一、金四百三拾壱両弐朱 銀四拾壱匁七分
- 赤穂にて巳六月三日手形にて受取。 一、金弐百弐拾両
- 京六波羅普門院、江戸指し下し申すべきと心当て、赤穂にて岡本次郎左衛門受取候得共、江戸へ普門院下らずにつき、此の方へ受取元に立てる。 一、金参拾両
- 紫野瑞光院にて御石塔御位牌建て候入用に心当て、小野寺十内赤穂にて受け取り銀差し引き残金、十内より受け取り元に立てる。 一、金八両壱分 銀五匁弐分五厘
となっている。このうちの3は内蔵助が御家再興のために、京都六波羅の寺僧普門院を江戸に指し下し交渉してもらうために、大坂蔵屋敷留守居役だった岡本次郎左衛門に託したものだが、普門院が留守で渡すことができなかったお金である。4は京都紫野の瑞光院に、亡君浅野内匠頭の石塔と位牌を建てるための費用の残金である。1と2であるが、内蔵助の説明によると、「去春(元禄十四年)赤穂において預かり候御金」で、「一儀之用事」に使ったその「余り金」であったという。具体的には瑤泉院が三次浅野家から輿入れした際に持参した「化粧料」を赤穂の塩浜に貸し付けて運用して、私的な支払いにあてていたが、赤穂を去るときに内蔵助が引き上げた千両のうち、七百両を瑤泉院に返却し、残った三百両と、藩を返還した時に清算したときに生じた余り金だったということだ。
出金
この資金が討ち入りのための軍事費ありきで用意されたわけでないことは、まず使われたものが仏事の費用であったことからもわかる。
- 紫野瑞光院に建てる御墓寄付の為、山相調え候代金也。 一、金百両
- 京都紫野瑞光院へ、下加茂村にて山寄附仕る。一、金子二百両
これ以外にも、別途僧侶へのあいさつなどに五両壱分の出費や、瑞光院では施餓鬼を行い、内蔵助の他に物頭の進藤源四郎や京都留守居役の小野寺十内が参詣している。
また、御家再興のための政治工作費としても出費されている。
遠林寺の僧祐海は江戸の浅野家祈願所鏡照院を頼り、その伝手で将軍綱吉が帰依する護持院大僧正隆光に対面した。そして、「内匠頭は先領主ですので、大変残念に存じております。此の上は、大学の閉門を首尾よく御免あそばされ、御奉公も勤まるようにと、明け暮れ願っております」と訴えた。内蔵助はこの時大学の赦免だけではなく、「人前がなるように、面目が立つように願っている」という書状を残しており、吉良上野介の処分も願っていたようだ。
こうしたお金の使い方から、内蔵助がこの時点では、このお金を討ち入りに使うことなるなど考えてもいなかったことが察せられる。
しかし、元禄十五年七月十八日、幕府若年寄の加藤越中守明英から浅野大学へ、同族の浅野長武を同道し、自分の役宅へ出頭するようにとの命令が来た。大学が加藤家へ出頭すると、他の若年寄も列席の場で、「閉門を赦免し、松平安芸守(広島藩主浅野綱長)へお預け」との申し渡しがあった。これは、閉門は赦免されたが、事実上の改易処分で、大学が当主の旗本家は消滅することになり、大学が赤穂浅野家の名跡を継ぐことなど不可能になってしまった。このことを受けて、京都丸山にある安養寺塔頭の重阿弥という宿坊を借りて旧赤穂浅野家家臣による対策の会議が開かれた。この時に部屋を借りた費用も出費の中に含まれている。そして、この会議で討ち入りが決定され、同志達は江戸に下ることになった。
江戸に下るための路銀、江戸と京都の間の飛脚代、江戸での屋敷を手当てするための費用も出費されている。ただし、内蔵助と家来の路銀は記録されておらず、乏しくなった軍資金を考えて、自弁だったようである。また、討ち入りのための武具や武器(槍・矢)の購入にも充てられた。
討ち入りの後のこと
元禄十五年十二月十五日寅の上刻同士47名は吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介の首を討ちとり、泉岳寺の亡君の墓前に上野介の首を手向け、焼香した。元禄16年2月4日、幕府から46名には切腹を命じられた。
四十六士の遺児も処分され、十五歳以上の男子4名は伊豆大島に遠島になった。十五歳未満の男子も15歳になるまでは縁のあるものに預けられ、遠島処せられることになっていた。
上野介は元禄14年12月に隠居し、義周が家督を継いだ。義周は正式には吉良佐兵衛義周と呼ばれ、米沢藩上杉綱憲の次男(春千代)であった。この上杉綱憲は吉良上野介の嫡男であったが、吉良上野介の正室富子が上杉綱勝の妹であった関係から末期養子として上杉家を継いだ。吉良家では上野介の次男・三郎が嫡男となったが、貞享2年(1685年)に夭折し、他に男子がなかったため、綱憲は元禄2年12月9日(1690年1月19日)、次男を実家吉良家への養子とした。なので、血縁としては上野介と義周は祖父と孫の関係にある。事件当日、義周は長刀で戦ったが、負傷して逃走した。元禄16年2月4日、大目付仙石伯耆守は義周を評定所に呼び出し、「吉良上野介の儀、去々年浅野と口論の時、公を重んじたとはいえ、抵抗もせず逃げたことは、内匠に対して卑怯の至りだったが、奉公を懈怠なく務めたためそのままに差し置いたが、不覚の至りである。このため、今度、内匠の家来どもが押し寄せた時も未練のように聞こえている。親の恥辱は子として遁れがたく、諏訪安芸守忠虎へお預けなされるものである」と申し渡した。義周は生来虚弱な体質であったようで、宝永3(1706)年1月19日に危篤に陥り、20日に死去した。享年21歳。
宝永六(1709)年正月十日、五代将軍綱吉が没すると、六代将軍は綱吉の代に罪を得たもののうち3839人に大赦を与えた。この時四十六士の遺児たちもすべて大赦とされた。また、広島藩に預けられていた浅野大学も赦され、五百石を与えられて旗本(交代寄合)として取り立てられた。