隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

歴史を変えた10の薬

トーマス・ヘイガーの歴史を変えた10の薬 (原題 TEN DRUGS)を読んだ。本書は著者の選定基準に基づいて歴史上の薬から10個を掘り下げて、その開発の歴史をまとめたものだ。

天然痘と人痘・牛痘

天然痘とといえばかっては恐ろしい伝染病で、致死率の高さと、仮に生き残ったとしても皮膚に消すことができない痕が残ることで恐れられていた。そして、天然痘の撲滅への道を開いたのはエドワード・ジェンナーの牛痘だと思っていたのだが、その部分だけを記憶していて、牛痘の前に人痘があったことを全然認識していなかった。メアリー・ピアポンとという名前の貴族の娘が17世紀後半にイギリスにいた。長じてエドワード・モンテギューと結婚し、1713年には長男を授かった。しかし、その年20歳のメアリーの弟が天然痘で亡くなった。それから、2年たち今度はメアリー自身が天然痘にかかった。幸いなことに彼女は生きながらえることができたが、天然痘の傷跡は顔に残っていた。その後、エドワードは英国大使として、オスマントルコに赴任することとなり、メアリーは息子ともどもオスマントルコに赴くことにした。メアリーはオスマントルコムスリムの女性たちと交流する機会を得、彼女たちの美しい肌に驚いた。天然痘の傷痕がないのだ。その謎はほどなくして分かった。ムスリムの年老いた女性が「植え付け」という手技を子供たちに行っており、それは針で皮膚に傷をつけ、針の頭に付けた何かを血管に指しこみ、木の実で傷を覆っていた。子供はその後発熱し、2~3日寝込み、顔に発疹が20~30ぐらいできるが、それは後にはならず、8日目には病気をする前と同じ状態に戻ったという。メアリーは大胆にも自分の息子にこの「植え付け」の手技を英国人医師メイトランドの立会いの下行わせたのだった。

1712年天然痘が流行が始まり、イギリスに戻っていたメアリーは3歳の娘対し、医師メイトランドに頼んで人痘を行った。このことがきっかけになり、モンタギュー家と親交のある貴族が人痘接種を依頼し始め、ついには英国皇太子妃までも動かした。しかし、英国王ジョージ一世は許可をせず、囚人の中から志願者を募って実験をすることになった。男女3人づつ、計6人に接種され、その後孤児11人に接種された。このことがきっかけとなり、徐々に人痘は広がり始め、1722年ついにジョージ一世は上の二人の孫娘に人痘の許可を出した。

モノクローナル抗体

以前生物学者福岡伸一先生がアエラでコラムを連載していて、その最後の方でモノクローナル抗体について書かれていた。内容に関しては全く記憶に残っていないのだが、この「モノクローナル抗体」という言葉だけは記憶に残っていた。これは単一のクローンにより生成された抗体という事なのだが、実はその細胞は骨髄腫細胞と白血球細胞を融合させて作り出しているというのだ。白血球は体外ではすぐに複製を止めて死んでしまうが、癌細胞はその性質上増殖を止めない。この二つを融合させて、良い所だけが残れば、非常に強力な武器になる。この画期的な研究は英国でアルゼンチン出身のセーサル・ミルスタインとドイツ人のジョルジュ・ケーラーによってなされた。さらに驚くべきことには、意図してか、していなかったのかは明確に描かれていないが、彼らは特許を申請しなかったのだ。だからこの技術は誰でも自由に使えた。そして、最初にモノクローナル抗体の特許を申請したのはアメリカのウィスター研究所だった。