隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

幕末江戸と外国人

吉崎雅規氏の幕末江戸と外国人を読んだ。

江戸時代にいつ頃から外国人が住んでいたのかに関しては正直なところよく知らなかった。安政五(1858)年六月十九日日米修好通商条約が結ばれるが、この条約の第一条に、

合衆国の大統領は江戸に居留するヂプロマチーキ・アゲントを任じ
The President of the United States may appoint a diplomatic agent to reside at the city of Edo

とあり、これが根拠・発端となりハリスは江戸に住むことになったようだ。当初幕府は江戸に外国人が住むことに当然難色を示していたが、ハリスがこの点を譲らずに条約に反映させたようだ。この後、七月十日オランダと、十一日ロシアと、十八日イギリスと、九月三日にはフランスと修好通商条約を結んだ。内容に関しては同一ではないが、外国公使の江戸駐在は共通している。

実際にハリスが江戸に入ったのは翌年の六月八日で、仮の旅宿は麻布の善福寺になった。一方イギリスは五月二十九日に浜御殿に上陸し、高輪の東禅寺を内見した。六月一日に老中に東禅寺を宿舎とすることを伝え、七日に正式に上陸して東禅寺に入った。フランスは八月二十六日に三田の済海寺に入った。オランダは当面長崎の出島を日本の拠点とすることにし、必要に応じて江戸に出府することとし、その時の宿を伊皿子の長応寺とした。ロシアは箱館の領事館を日本の本拠地とし、江戸での宿は三田小山の天曉院とした。

ちょっと意外だったのが、江戸時代正式な外交関係があったのは朝鮮と琉球だけで、オランダとは貿易はしているが、外交関係はなかったという点だ。なんとなく、貿易をしているのだから国交もあると思っていたのだが、正式な外交関係はなかったようだ。

江戸への一般外国人の流入

外交官が江戸に駐在を始めてからも、民間人の外国人は修好通商条約の規定により江戸に入ることは許されていなかった。横浜に居住する外国人が自由に行ける範囲は「六郷川を限りとしてその他へは各方へ凡そ十里」となっていた。つまり、多摩川を越えて江戸に入ることはできなかったのだ。しかしこれは建前で、公使館の関係者であったり、公使館の招待者であれば六郷川を越えて江戸に入ることができたようだ。また、当然のことながら密航して江戸に入るものもいたようだ。

各国の公使館があった辺りと品川の宿が近いこともあり、品川の宿には外国人が押し掛けることもたびたびあったようで、その所為でトラブルの種となっていたようだ。

攘夷熱

江戸のおける攘夷熱は文久(1862)二年から翌年にかけて高揚したようだ。当初は攻撃の対象は外国人であったが、福沢諭吉福翁自伝によると、文久二年の辺りには、外国人とつながりのある日本人にまで対象が広がっていたようだ。実際文久二年一月十五日には坂下門外で老中安藤信正が襲われている。治安の悪化を背景にイギリスとフランスは文久元年末ごろに居を横浜に移した。アメリカだけが江戸にとどまったようだ。

元治元(1864)年イギリス公使オールコックは外国に対して強硬姿勢をとる長州藩を武力で攻撃するため、英米仏蘭の4か国連合艦隊を編成し、七月二十四日横浜を出港し、八月五日壇ノ浦付近の長州藩の砲台を攻撃して、沈黙させた。下関戦争の勃発である。下関戦争に勝利した連合艦隊は帰港し、横浜を通過して江戸沖まで進入した。

その後慶応元(1865)年十月五日、孝明天皇徳川家茂に対して、安政五年以降締結した欧米諸国との修好通商条約を「御許容」するとの勅書を発した。この時英仏蘭の連合艦隊は兵庫沖に来航していて、武力で条約承認を求めていた。この勅許以降外国人に対する暴力的な動きは少なくなっていく。