隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

天路の旅人

沢木耕太郎氏の天路の旅人を読んだ。第二次世界大戦末期、ラマ教の巡礼層に扮した密偵が中国の西域に潜入した物語だというのを本の紹介で見て、興味が湧いた。ちょうどその頃小川哲氏の地図と拳 - 隠居日録を読んでいて、重なるところがあるような感じがしたのも、興味が湧いた理由の一つだと思う。ただ沢木氏の本は今まで読んだことがなかったので、私の持っている勝手なイメージなのだが、沢木氏の書くテーマと密偵というのが繋がらなくて、果たしてその様な男の物語を書くのだろうかと疑問に思った。ちょうどNHKクローズアップ現代で取り上げていて、番組を見たり、インタビューを読んだりして、密偵である西川一三に更に興味がわいた。戦後日本に帰ってきてからは、化粧品店を営み、その仕事を淡々とこなしていたという。密偵だった男が、化粧品というのも結びつかず、不思議に思った。

沢木氏も密偵と表現しているし、本人である西川一三も密偵と称しているので、本人にはそういうつもりがあったのかもしれないが、実際に彼が密偵であったかどうかは疑問に思う。密偵であるからには日本軍に属しているか外務省に関係がある人物と思っていたが、西川は福岡の修猷館中学卒業後は満鉄に勤務した。満鉄では最初朝鮮国境の安東で勤務した。その後、天津、北京―包頭を結ぶ京包線に赴き、北京、包頭で勤務した。5年後、満鉄を辞め、興亜義塾という学校に入った。その学校は蒙疆方面に進出するための人材を育成することを目的としていて設立された。西川は尋常小学校に来た蒙古服姿の男性からゴビ砂漠青海湖という地名を含んだ旅の話を聞かされ、以来大陸の奥に強いあこがれを抱いていた。いつか自分もそのようなところに行ってみたいと思うようになっていたのだ。本書を読んで、これが西川をして8年も中国の西北域からチベット・インドへの旅に突き動かした物の実態ではないかと思った。

中国の西域行には日本政府と軍部の承認が必要なので、興亜義塾のつてで張家口の大使館の嘱託の次木一を頼り、渡航の承認と準備金6千円を得た。こうして西川は密偵となったのだが、この本の中で、日本側に何らかの報告をしたのは1回しか出てこない。やはり彼の動機は何かを探るというよりは、行ってみたい・見てみたいという純粋なものだったのではなかろうか。西川が出発したのは1943年の10月だが、戦争が終わったころはチベットにいて、日本が負けたようだという噂は聞こえてくるが、実際はどうだかわからなかった。インドに行けば詳しくわかるかもしれないと、インドに行き、日本が負けたことを知るが、それでも日本に帰ろうという考えは起きず、旅をひたすら続けるのだ。旅の方便として怪しまれないようにラマ僧となったが、その後実際にラマ僧の修業をしたり、戦後はインドとチベット間で担ぎ屋のようなことをしたりもした。インドでは巡礼の僧侶のように托鉢をしながら旅をしたりもし、最後の頃はビルマに入国するための準備として鉄道の工事現場で工夫として働いたりもした。そして、旅の年数は実に8年にも及んだのだった。

西川一三とい名前はある程度の年齢の人ならば知っているのかもしれないが、私は全く知らなかった。このような日本人がいたことが驚きだ。