隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

反知性主義

森本あんり氏の反知性主義を読んだ。「反知性主義」という言葉自体はいつの頃からか目にしたり、耳にしたりすることがあった。その意味するところも、この言葉から科学的な知識や知見に反した行動や言動することを指すのだろうと漠然と思っていた。なぜそのような事をするのかということまでには考えたことはなかったのだが、本書を読んで、これが単なる知性に対する反抗といような単純な話ではなく、アメリカ合衆国の成立とアメリカにおけるキリスト教の歴史と深く結びついているということが分かった。

ピューリタンと知性主義

アメリカは移民の国なので様々なバックグラウンドを持つ人たちがやって来たが、その中の一派にピューリタンがいて、彼らはニューイングランドに入植した。1646年までに海を渡ったピューリタンのうち、大学卒業者は130名で、そのうちケンブリッジ大学卒が100名、オックスフォード大学卒が32名(重複有)で、当時の植民地人口からすると、40家族に一人という割合で、大卒者の大半は教会の牧師で、98名を占めていた。なぜ彼らが高学歴なのかというと、それはピューリタリニズムに由来する。プロテスタントの「教会の教えではなく聖書の教えに立ち返れ」という考え方を先鋭化したのがピューリタリニズムだ。だから、教会はその聖書の言葉を正しく解き明かしてくれる指導者を求めた。そのためピューリタンの牧師は聖書の解釈と解説の高い能力が求められ、ヘブライ語ギリシャ語を学び、原典から聖書を解読し、そこから得た自分の考えを聞き手に分かるようなメッセージ組み立て直して語らなければならなかった。

ハーバード、イェールズ、プリンストン大学はこのような任務に就くピューリタンの牧師を養成することを第一の目的に設立された。3校ともアメリカ独立以前から存在しているが、ハーバードが設立されたのは1636年のことである。

リバイバル運動

リバイバル運動は信仰復帰とか信仰復興運動とも書かれることがあるが、端的に言えば、突如信仰に目覚めて回心し、教会に行き、善行したいことである。また、教会の礼拝や祈祷会は大盛況になり、集まった人々は救いの歓喜や罪の悲嘆にむせび泣く。轢きつけ痙攣をおこすものもいる。これは一部の人から始まり町を挙げての大騒ぎになる。どうやらこれは集団ヒステリーの様なのだが、町から町へと広がっていき、地域一帯が暫くと騒然となった。このようなことがアメリカでは何度か起こっているようで、最初に記録されたのは1734年のマサチューセッツノーサンプトンという町だった。

当時のマサチューセッツでは町の公民資格が正規の教会員籍を持つものに限定されており、そのために教会員だけが投票権を持ち、政治に参加できた。教会員になるには大人になって、自分で信仰を告白できるようになり、「堅信礼」という儀式を経て初めて地域の信徒となる。信徒の子であろうと必ずしも親が経てきたのと同じ信仰の体験が得られるとは限らない。そもそもどのようなことを経験すれば、それが恵みであり、どのような心の変化があれば、それを回心と呼ぶのかわからない者たちがだんだんと増えていっていた。さらに問題なのはこのような未回心の者の子は幼児洗礼が受けられなかったことだ。そして、もし幼児洗礼を受けずに死亡してしまったら、キリスト教徒としては救われないことになる。そこで協会は「半途契約」というものを考案し、未回心の者の子も幼児洗礼を受けられるようにした。こうして、未回心のまま回心を渇望するものがだんだん多くなっていたのだった。

リバイバル運動を担ったのは既存の教会の神父ではなく、巡回説教師であった。彼らは正に巡回セールスマンのように町から町を渡り歩き、神を商売にした。その出自も様々で、どこかの大学を卒業したわけでもなく、どこかの教会に任命されたわけでもない。だが、彼らの話は抜群に面白く、言葉は平明で、身振り手振りを使って、身近な話題から巧みに語りだし、多くの人を引くつけた。既存の教会の牧師たちに「どの教会で牧師に任命され、誰に派遣されたのか」と問われると、「神は福音の真理を『知恵のあるものや賢いもの』ではなく『幼子』にあらわされる、と聖書に書いていある(マタイによる福音書 11章25節)。あなた方には学問があるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。また、あながたたのようなものこそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか」と言い返した。ここに反知性主義が凝縮している。また、「神の前では万人は平等だ」という極めてラジカルな宗教原理にも根差している。

反知性主義を生む平等の理念

第4代大統領となるジェイムズ・マディソン(1751-1836)はプリンストン大学を卒業して、1772年にヴァジニアに帰郷する。おりしも南部ではリバイバル運動が最高潮を迎えていて、多くのバプテスト達がリバイバリストとして活動していた。しかし、リバイバリストは市の許可を受けていないということで迫害されていた。人前で信仰を語ったり、印刷物を配布しただけで投獄されたり、笞刑を受けていた。バプテスト達宗教的少数者が迫害されたのは、ヴァジニアに公定協会制度があったからである。それは政府が一つの教会を公の教会と認めて、全ての人がその教会を支るという制度である。政治家となったマディソンはジェファソンと協力して、長い努力の末、この制度を廃止した。彼らの努力は政教分離と信仰の自由を明記した連邦憲法にも影響を与えた。各人が自由に自分が思うままの宗教を実践できるようにするため、国家が特定の教会や宗教を公のものと定めないことを求めているのだ。

民主主義というシステムはごく普通の人々が道徳的な能力を持っていることを前提としている。この道徳的能力は、取り立てて教育を受けていなくても、誰もが自然に発揮できるものである。だから、自分では政治を担当する能力がなくても、それができる人を選ぶくらいの知性と徳政は持っている。平均的な能力を持つものなら、良い政府と悪い政府を見分けられる。この道徳的な能力・感覚は人々に平等に与えられていると彼らは考えている。ここに反知性主義につながる平等の理念がある。

宗教のビジネス化

19世紀末に起きた第三次信仰復興運動の重要な人物がドワイト・ムーディーはリバイバル運動とビジネスとうまく結びつけた人物だ。ムーディーはマサチューセッツの貧しいレンガ職人の家に生まれた。父親は彼が4歳の時に7人の子を残して死んだが、一月後には母親に双子が生まれた。殆ど学校教育を受けず、17歳で叔父を頼ってボストンに行き、靴販売業を手伝った。叔父には日曜日に教会に行くように言われ、そこで日曜学校を手伝ううちに、彼は回心した。やがてシカゴに移り、急成長する街で彼も財を成していく。勤勉で敬虔な商売上手の彼はそこで日曜学校を開き、たちまちたくさんの子どもが集まった。彼は市と交渉し、町の施設を貸してもらい、「日曜学校債」という債券を発行し、1万ドルをかき集めた。1860年彼は事業のすべてを手放し、手元に残った7000ドルで伝道に専心する決心する。YMCAの会長になり、窮民救済事業を進め、南北戦争の戦場に救援を送り、傷病兵を受け入れた。ムーディーは貧困階級のための教会を作り、初代の牧師としてふるまった。ムーディーは自分が行く予定の地方には牧師たちからの招待を受けるための先遣隊を送り込み、ポスターや新聞の広告を配り、集会が終わればその報告を新聞に掲載し、次の紹介に人々を誘うように依頼した。ムーディーの集会のために6000人規模の大規模専用会場が作られ、そのために個人・法人から献金が集められた。献金のために繰り返し広告が掲載された。本集会の前にプレミアム付きの予備集会を開き、大口の献金者を招待するという手法も取られた。また、会計報告も新聞紙上で公開された。伝道者たちの受け取った報酬は会計報告上で必要経費だけだったようだが、委員会の会計担当者が彼らに現金入りの封筒を渡したようだ。著者は具体的な金額を書いていないが、「十分な暮らしができる金額だった」とは書いている。また、「ムーディーが亡くなった時には、故郷のマサチューセッツに家と農場と500ドルの現金が残された程度である」とも書いているが、農場の大きさが書かれていないので、少ないのか多いのかは判断できなかった。

宗教と現生利益

アメリカの反知性主義に特徴的なのは、宗教的な平等理念と経済的な実用主義との奇妙な結びつきなのだ。アメリカ人は「天は自ら助る者を助く」という信念があり、そこには目標に向かう強い意志の力を養い、倹約と勤勉と忍耐を続けた人だけが成功するにふさわしい人格になるというプロテスタント的な道徳規範が背後にある。そして神もそのような真面目な努力に祝福を与えるという考え方があるからだ。アメリカ人は利益に惹かれて宗教に従うが、その利益を来世ではなく徹底して現生に求めているのだ。