隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

紫式部と藤原道長

倉本一宏先生の紫式部藤原道長を読んだ。2024年のNHK大河ドラマ紫式部が主人公なので、その関連本の一つだろう。倉本先生はドラマの時代考証もしている。本書はタイトルが紫式部藤原道長で、二人は同時代の人だが、一体いつどのように出会ったのかが不思議だった。何かヒントが書かれているかと思ったのだが、結論から言うと現存する一次史料からはわからないようだ。

紫式部の家系・家族

紫式部の父為時は藤原良房の異母弟の良門の子孫で、利基―兼輔―雅正―為時とつながる。母は同じく良房の兄の長良の子孫で、清経―元名―文範―為信―女とつながる。本名は不明だ。この女性は紫式部の姉、紫式部、弟惟規を生んだ後に、早世したようだ。また、紫式部の姉も若くして亡くなったようである。為時は再婚したが、後妻とは同居せず、後妻のもとに通ったらしい。後妻との間には惟通、定暹(出家)、女子を設けた。

紫式部の生年に関しては正確にはわからず、天禄元年(970)、天禄三年(972)、天延元年(973)、天延二年(974)、天延三年(975)、貞元元年(976)、天元元年(978)と様々あるようだが、決定的な根拠がなく、定まっていない。紫式部が育ったのは曽祖父の兼輔が残した堤第の半分の敷地であったようで、ここで夫の藤原宣孝を迎えたり、娘の賢子を育てたり、源氏物語を執筆したりもしている。

長徳二(996)年の秋、父為時が越前に赴任することになり、紫式部もともに越前に下向した。紫式部が結婚した年はわかっているようで、長徳四(998)年の冬で、この時宣孝は47歳だった。曽祖父の定方は右大臣まで登り、醍醐天皇外戚だった。父為輔は権中納言まで至っている。紫式部とは又従兄妹の関係だった。

源氏物語について

紫式部源氏物語をいつ頃からどのような経緯で書き始めたかということを示す一次史料はやはりないようで、当然道長がどのようにしてそれを知ったのかもわからない。

紫式部一条天皇中宮の彰子の許にいつ出仕したのかも定かではない。紫式部日記に寛弘五(1008)年12月29日に宮中に参上したと書かれているので、これより数年前には出仕したと思われるが、正確な日付はわからない。本書に「出仕は源氏物語のはじめの数巻による文才を認められてのことである」と書かれているが、これ以上具体的な記述はなく、「紫式部日記」には「主上(一条天皇)が『源氏の物語』を人にお読ませになられてはお聞きになっていた時に」というような記述があり、一条天皇源氏物語を読むために彰子の許を訪れるという道長のたくらみは成功したということだろう。

私は源氏物語を読んだことがない。というのも、光源氏という美男子の恋愛物語だというざっくりとした説明と紫の上と光の君の関係性が何かインモラル的に感じられて忌避していた。しかし、先日NHK BSの英雄たちの選択の「紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜」を見ていて、紫の上と光の君の関係性は彰子と一条天皇の関係性をなぞったものだという説明を聞き、しかもそれは道長の要請だというのを知り、ひどく政治的な物語なのだと感じた。当時の実際の宮廷における人間関係を正しく把握したうえで読む源氏物語はまた違った姿が見えてくるのだと思う。

それと本書には書かれていなかったが、以前から「光源氏」という表記が不思議だった。「源光」ならば姓名という組み合わせになるが、なぜ逆さまになっているのだろうと思っていた。これは源氏物語に「光る源氏 名のみことごとしう…」という記述があるから、「光源氏」となっただけで、「光」というのも名前というわけではないようだ。